江戸時代、島津家の領国は薩摩、大隅と日向諸県郡、奄美、琉球から成っていた。
明治維新後、廃藩置県によって旧島津領国が鹿児島県と都城県に分割された際には、島津久光が激怒したという。
現在でも薩摩、大隅、奄美は鹿児島県となり、かなり一体性の強い県土を形成している。
だが、少し歴史を遡ると、奄美は言わずもがな、薩摩と大隅は、少々違う歴史を辿っているように見える。
関東勢の薩摩、地元勢の大隅
薩摩、大隅に戦国時代に現れる著名な武士を考えてほしい。
薩摩から現れる武士たちを眺めて気づくのは、島津貴久、島津忠将、島津尚久、島津義虎、伊集院忠朗ら島津一族、あるいは入来院重嗣、祁答院良重、東郷重尚ら渋谷一族など、関東から下ってきた武士が多いことである。
これに対して大隅はといえば、肝付良兼、肝付兼盛、禰寝重長など、平安時代以来の土着の勢力が健闘している。
挙げられる例数が少ないので、これだけで断定するわけにはいかないが、この違いには何か原因があるのだろうか。
薩摩と同様の例として、安芸が挙げられる。
安芸の豪族を挙げてみよう。右欄は各氏の苗字の土地が存在する国である。
この国の守護であった武田氏(甲斐)、山名氏(上野)も関東から下ってきた一門だ。
見ての通り、安芸は、関東勢の独擅場だ。
これに対して、周防の大内氏、長門の厚東氏など、安芸と隣り合わせの防長両国では地元勢の健闘が目立つのである。
なぜだろう
よっくすはここに、”平家没官領”との関係を想定した。
平家没官領とは、滅亡して没収された平家一門の旧所領であって、これらが関東の武士に恩賞として与えられた。
平家没官領が国ごとに偏りがあれば、当然恩賞地にも偏りが出るはずであって、要するに元々平家一門の勢力が強かった国には、関東の武士の進出が目立ったのではないか、ということだ。
平家が尊崇した厳島神社が鎮座する安芸などは、その典型ではないか。
もっとも島津氏の場合は、島津荘という荘園との関係が推定されているので、ここでは例外となる。
以上は主として西日本の話である。東日本はそもそも関東武士の地元なので、地元勢と関東勢との区別がナンセンスである。
北条氏の守護国が増えた原因
さてここで、もうひとつ気になる事象がある。
それは、鎌倉時代後期に、当時執権を輩出した伊豆北条氏一門の守護国が著しく増えることだ。
鎌倉末期には、全国38カ国が北条氏の守護国であったとされる。他氏は15カ国である。
筆者の蔵する「新詳説日本史(1991)」という教科書では、「全国守護の半ば以上は同氏一門が占め」「北条氏得宗の専制政治が強化されていったことは,御家人の不満をつのらせる結果となった」とある。
この説明によれば、北条氏はあまりに権力の独占を欲張りすぎ、却ってそれが仇となって自滅したことになる。
本当にそうなのだろうか。
北条氏は、誰の支持も無いまま、ただ権力欲に導かれるままに守護職の独占を試みたのだろうか。
同じく「新詳説日本史(1991)」では、「有力な御家人や政務にすぐれた人々11人を評定衆に選んで(中略)合議制に基づいて政治を行った」「貞永式目は(中略)紛争を公平にさばく基準をあきらかにした」などとあり、どうしても“北条氏がわがままに権力の増大を図った”というイメージと一致しないのである。
通常、受験日本史的には、この現象は北条泰時の善政が後継者の時代に元寇への対応の必要から転換されたものと理解されるのだが、それでいいのだろうか。
また、どうして北条氏以外のいくつかの豪族は、幕末になっても守護職を務めることができたのだろうか。
平家の亡霊が北条氏を阻む!?
ここによっくすは一つの仮説を立てた。
平家没官領が多く分布した国では関東武士の進出が多かったとすれば、そうでない国には平家滅亡後も地元の武士が多数残存したはずだ。
それらは、鎌倉幕府初期は、必ずしも幕府に従ってはいなかった。
そもそも幕府の本質は鎌倉殿に忠誠を誓う武士たちの私的団体であって、参加の義務は無い。
しかし御家人に登録されることの有利さが知れ渡ることにより、遅れて御家人となった者たちも多数いるはずだ。
それらの者どもはどのような伝手をたどって幕府と連絡をつけたのか。
当時、幕府最大の実力者であった伊豆北条氏を頼ったのではないのか。
筋としては、その時点でのその武士が居住する国の守護を頼るのが本当であろうが、そもそも守護とは進駐軍のボスである。現地の武士、しかも幕府に参加していない武士たちとは、根本的に対立関係にある。
であればなおさら、守護よりもさらに上位にある者、すなわち北条氏の威信を頼って、目の前の紛争を有利に運びたいという心理が働いてもおかしくない。
そうした「遅れてきた御家人」の数が増えたとき、その国では「北条氏を頼みにすがる御家人」が多数派になってしまうのではないか。
北条氏は、必ずしも権力の亡者に成り下がって各地の守護職を漁りまくったのではなく、いわば民意に応じる形で守護職を手中に収めていったのではないのか。
一方で、平家没官領が多かった地域では、そのような時勢でもなお、関東勢が優勢であって、自分たちのリーダーである関東下りの守護の威信を借りて新しい領地に君臨していたのではないか。
実際に鎌倉幕府末期の時点では、関東勢が優勢な薩摩の守護は島津氏で、地元勢の強い大隅の守護は北条氏であった。
もしこの仮説が正しければ、平家との関わりが北条氏の進出に決定的な意味を持っていたわけで、まるで平家の亡霊が一部の国への北条氏の進出を阻止したようではないか。
ここで、鎌倉時代末期になってもまだ北条氏以外の者が守護を務めていたと推定される国を、「鎌倉幕府守護制度の研究(佐藤進一)」から拾ってみよう。
表には無いが、安芸では1276年まで武田信時が守護を務めていたとされる(ただし1293年には北条宗長となっている)。
その後の成り行きを見ると、阿波、豊後、出雲などは確かに関東勢が強そうである。
阿波の小笠原氏の末裔である三好家が、戦国時代に近畿地方を席巻したのは象徴的だ。
逆に、地元勢が強く、室町時代にも地元の武士が守護を務めたような美濃、周防、肥後などの国では、鎌倉時代末期の守護は北条氏であった。
謎は謎のままに
しかしながら、全国的に見れば、表中の諸国がすべて関東勢が優勢であったともいえない。
たとえば、伊予などは、鎌倉時代の時点ですでに地元勢の越智・河野一族の活躍が知られている。
したがって、残念ながらここまでの調査の範囲では、よっくすの仮説(地元勢優勢=北条氏守護)は、正しいとは言えない。
すっきりしなくて申し訳ないが、よっくすが提案した2つの疑問は、未解決のままである。
最後に再度提示して本稿を終えたい。
1)北条氏の守護職独占は、どのような社会情勢を背景として進んだのか。
2)非北条氏の手に守護職が残された国にはどのような事情があったのか。