徳川家康はことのほか静岡が好きだったようだ。
家康の経歴を簡単に振り返ってみよう。
1542年 生まれた。三河の岡崎出身。
1603年 将軍になる。62歳(数え年)
1616年 死亡。75歳(数え年)
以上が家康の経歴である。
三河の小豪族、それも分家筋に生まれながらも天下を取ったのは、よほどの強運と実力の持ち主だということだろう。
注目すべきは、屋敷を構えたその土地である。
1542年 岡崎(三河)
1547年 熱田(尾張)6歳
1549年 駿府(駿河)8歳。この年に父が死んで家督相続。
1560年 岡崎(三河)19歳
1570年 浜松(遠江)29歳
1586年 駿府(駿河)45歳
1590年 江戸(武蔵)49歳
1607年 駿府(駿河)66歳
1616年 駿府にて死亡 75歳
わかりにくいので表にしてみよう。駿府とは言うまでもなく、現代の静岡である。
小さくて見づらいが、黒丸が静岡に住んでいた時期だ。
なんと静岡には3回も住んでいる。
最初は人質として、8歳から19歳まで。
このときは、主君今川義元の戦死という突発事態で岡崎に帰還する。
次は、三河から遠江、そしてついに駿河を領有し、豊臣秀吉との戦争も一段落した45歳のときに。
しかしこのときは、豊臣秀吉の命令による国替えで駿河を失い、江戸へ移住している。
そして将軍になり、その将軍を世嗣秀忠に譲って隠居したのち66歳のときに、三たび静岡に帰ってくる。そして死ぬまでを過ごすのだ。
(駿府城址)
俗に、家康は駿府で辛い人質生活を送ったと言われている。
しかし本当にそうだろうか。
2度ならまだしも3度帰ってきた家康。
しかもその3回目は、天下を掌握し、その気になれば全国どこにでも行けたはずだ。
そんな家康が選んだのは、またしても静岡であった。
それに引き替え、本来の本拠地であった岡崎に対して冷淡なこと。
少年時代の家康は、静岡では比較的厚遇されている。
元服の時には今川義元の一字をもらって「松平元信」と名乗っている。
妻は今川義元の姪だ。
静岡にやって来たのは数えで8歳、満では7歳のころだから、それ以前の記憶はあまりないに違いない。
家康は静岡で育ち、元服し、妻をもらい、初陣に臨んだのだ。
家康は死後、久能山に葬られ(久能山東照宮)、一年後に日光東照宮に改葬された。
だが家康は本当に日光を望んだのであろうか。
(久能山東照宮から望む駿河湾)
江戸時代、大名家の嫡子はみな江戸で育った。
それはかつての家康の姿そのものだ。
彼らが長じて後、自らの故郷として江戸を想うことも、家康は自らの体験から見通していたことだろう。
今川義元の嫡子氏真は、徳川家康に滅ぼされるのだが、没落後には結局家康と仲直りしてその家臣となる。
一説によれば、晩年の氏真が江戸城からやや離れた品川に屋敷を与えられたのは、たびたび城を訪れて長話をするのに家康が辟易したためだとか。
かつて敵対したとはいえ、老年に入った家康にとって、氏真は古き良き駿府を知る、数少ない仲間だったのではなかっただろうか。
家康と氏真は、少年時代、ともに過ごした今川義元の築いた駿府に対する憧憬の心を共有していたのではないか。
今川氏真は77歳で亡くなる。その1年半後、氏真より4歳年下の家康も亡くなった。享年75歳。