今は「南伊豆町」としてくくられている領域は、江戸時代には多くの村に分かれており、それらは各々独立して領主に属していた。
wikipediaで「賀茂郡(伊豆国)」を見ると、江戸時代の郡内の各町村を誰が領していたのかを知ることができる。
そのうち南伊豆町に関する部分を抜き出すと以下のようになる。
だいたいの位置関係は下図の通りだ。
青が幕府領、緑が旗本領、緑地に白抜き文字が幕府領・旗本領だ。赤は藩領。
幕府領を治める韮山代官所は、旗本の江川家が代々代官を務めており、有名な江川英龍もその一人にあたる。
見たところ、風待ちの港になりそうな要所は幕府が抑えているのかなと思ったが、入間や子浦・妻良などの良港は幕領ではないし、もう少し目を広げるとたとえば稲取などは駿河沼津藩領となっている。
ただし、この地域の要衝である下田町は幕領であった。
下田には下田奉行が在勤した時代があったはずだが、町の行政は下田奉行ではなく韮山の代官が司ったのであろうか。そのあたりはよっくすにはよくわからない。
だが、そうだとすると、下田に建設中の反射炉の付近に米兵が闖入したのを憂慮した江川英龍が、建設地を急遽韮山に変更したという伝承も、違和感なく納得できる。
(韮山の反射炉)
もう一つ気づくのは、これらの村域が、いまも郵便の住所として生きていることだ。
たとえば手石地区には小稲、下流地区には赤穂浦、入間地区には中木、妻良地区には吉田など、離れた集落を含んでいるものが多くある。
これらの離れ集落は、現代でも独自に地区を運営し、独自にお祭りなども行っている。
それが同じ括りになっているのは、江戸時代から続く村の存在なしには考えられない。
時代が変わって、家並みも変わり、道路は舗装された。海岸には護岸が入っている。
しかし、岸から望む海の景色は、江戸の昔も今も変わっていないはずだ。
そして、人々の生活の中にも、いまだ江戸時代が密やかに生きているのだ。