奥日光で熊が出現したというニュースをよく見かける。

782年、勝道上人が男体山に登頂したときも、もちろん奥日光には熊が盤踞していただろう。




古来より、山は人間の生活の場であった。

たとえば、尾瀬と言えば秘境のイメージが強いかもしれないが、戦国時代末期に、当時、利根郡の領主であった沼田万鬼斎が会津に逃亡する際に尾瀬を通過している。

彼がその道を選んだのは、それに先だって尾瀬が交通路として利用されていたからに違いない。

古代は2本の足(と牛馬)しか交通手段がなかったのだから、現在では自動車の通行に適さないために廃絶した多くの山道が利用されていたのだ。

奥日光を通過する金精峠が、商業路としてどれだけ利用されていたのかはわからない。

しかし、尾瀬の例を挙げるまでも無く、日光においても、渡良瀬川の流域である足尾が栃木県に属するのは、足尾が日光山領であったためであろう。

それは古来、細尾峠を通過する需要があったことを無言で物語っている。

しかし山道の通行は当然、危険と隣り合わせだ。

現代でも、奥日光では人間の生活の場に頻々と熊が出現する。

古代人が、往来の際に熊に遭遇することは、「よくあること」であっただろう。

当然、長い年月の間には多数の犠牲者を出してきたに違いない。

当時は狼もいただろう。

山越えは、ただたんに、体力だけでなんとかなるものではなかったはずだ。

奥日光を通行するたびに、古代人の、旅に賭する想いを感じずにはいられない。

 

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