杉並木は日光の見どころの一つである。
三猿や眠り猫の素晴らしさは言うまでもないが、そこに至る過程として、あまりに有名な杉並木を見て、目的地が迫ってくる高揚感が得られるのも日光の素晴らしさである。
(例幣使街道の杉並木)
さてしかし、この杉並木も現在大きな問題を抱えている。
杉が次々と枯死しているのだ。
(枯死した杉)
杉の本数が減れば美観を損なうこと著しいが、問題はそれだけではない。
万が一、枯死した杉や折れた枝が落ちてきて人や自動車に当たったらどうなる。
そうした事故を未然に防ぐための診断や伐採にも費用がかかる。
問題のひとつは杉の老齢化だという。
杉はマツ目ヒノキ科。
よく見ると松ぼっくりにやや似た、細長い実をつける。ぱっと見ると蛇に似ていて、不意に見つけて驚かされることがある。
杉の植樹を始めたのは松平正綱。江戸時代初期だ。
もうすぐ400年。
だから、木が枯れていくのも仕方がない面もあるようだが、少しでもそれを食い止めるために自動車の迂回を呼びかけたり、通行を規制する等の対策も取られている。
(杉並木を守るための迂回の呼びかけ)
こうした対策の結果、少しは樹勢の衰えも食い止められているようだ。
だがそれも痛し痒しで、まったく通行を止めてしまえば何のための道路、何のための並木かわからない。
松平正綱氏も、誰も通らない道路のためにせっせと杉を植えたわけではなかろう。
歩行者専用道路という発想もあるだろうが、ここ日光市も地方都市の例に漏れず車社会が浸透しており、部分的に通学の高校生が通行する場所があったりもするが、総じて言えば歩行者などほとんどいない。
第一、通行止めにして舗装を剥がせば、あっという間に草ボウボウになってしまう。
道路でなければ、その整備の費用だって公費で出すのは難しいのではないか。
結局、道路として実用に供されていなければ、せっかく木々を守っても意味をなさないのだ。
ここに杉並木の維持管理の難しさがある。
(通行止めになったところも)
もうひとつ、今ある木々を守るだけではだめだということも考える必要がある。
いろいろな対策の結果、樹勢の衰えの進行を多少食い止めたとしても、いずれは寿命が来る。
新しい木を植えなくてはいけない。
文化財としては、江戸時代の木々による並木というのは非常に価値があるように思える。
だが、松平正綱氏の思いは、旅人を厳しい日射から守り、また旅人が見た目に楽しく、正しく道を進めるように、ということだったはずだ。
自分の植えた木が全て枯れたら再びつるつるてん、というような未来を期待したのではないはずだ。
だから、正綱氏も、もし自分の植えた木が寿命で枯れたら、当然誰かが新しい木を植えてくれるはずだと期待していたに違いない。
もしそれでは文化財でなくなるというのなら、文化財でなくなったほうがいいと思う。
考えてみてほしい。
・昔植えた木々を大切に守っている
・昔木を植えた人の心意気を引き継いで並木の景観を守っている
どちらの方が正綱氏の、そして通行者の心を捉えるだろうか。
幸い、植樹は実際に行われている。
だが、いずれにせよ、対策にも植樹にもお金がかかる。
そのために、たとえば杉並木オーナー制度などが行われている。
(オーナーを示す標)
よっくすも、1本1000万円でどうかと勧誘を受けて、思わず数字の桁を確認してしまったことがある。
(残念ながら、よっくすにはそれだけの費用を捻出するだけの余裕はなかった)
もし将来、なにかの弾みで億の年収を得る身分にでもなったら、ひとつ杉並木オーナーにでも応募してみようかと思う。