往年の広島カープのピッチャー、川口和久選手のコラム「川口和久のwebコラム」の中で、「広島の先輩・北別府学さんは、キャッチボール投法だった!」と題する回があった。
なるほどそうだったのか。
北別府投手は、全力投球していなかったのだ、と感じた。
北別府投手は鹿児島県末吉町出身だが、高校は宮崎県の都城農業高校を出ている。
末吉町は都城盆地の一角にありながら鹿児島県に属しており、都城の公立高校に進学できる。
さてそんな北別府選手が活躍していたのは昭和の終わり頃である。
高卒2年目には速くも規定投球回数に達した。
下図は、北別府投手が活躍していた時代の、広島カープの主な先発投手である。
黒字は20試合以上先発したことを意味している。北別府投手は、2年目の1977年から17年目の1992年まで、1990年を除く15年で20試合以上先発しており、長期間実力を維持し、かつ故障の少ない優良な先発投手であったことが判る。
1982年には20勝して最多勝。
1986年には18勝。この年はオールスター戦以降の後半戦で11勝1敗という圧倒的な成績を残し、広島カープの大逆転優勝に大きく貢献した。
1980年代後半には、大野投手、川口投手と「三本柱」と称されたが、速球と切れの良い変化球で打者をねじ伏せる大野投手や川口投手と比較して北別府投手はいかにも地味で、成績に翳りがみえていたこともあり、なぜ毎回、3連戦の初戦を任されるのか、疑問に思わないでもなかった。
今ではわかる。
北別府投手は今で言うマネーボール、つまり多くの回数を投げることができるという点で大野、川口両投手に勝っていたのだ。
それは、先発して多くの回数を投げきることができるということもあるし、毎年故障無くシーズンを過ごすことができるために、先発の回数が多くなるということでもある。
よっくすのアイドル、大野投手は、対峙した打者を実力で圧倒したが、故障離脱が多かった。
1988年の大野投手は防御率1.70という圧倒的な数字を残したが、この年ですら先発数は24、投球回数は185回0/3にすぎなかった。
冒頭に挙げた川口投手のコラムでよっくすが納得したのは、北別府投手は全力で投げていなかったから故障が少なかったのではないか、ということだ。
だが別に手抜きをしていたわけではなかろう。
次に、北別府投手の投球の特徴を分析してみよう。
この表は、三振と四球の比率を示したもので、投手のコントロールを示すとされる。
精密機械と称された北別府投手だが、この指標では思ったほど抜きんでているわけではない。
しかし、下図はどうだろう。
これは、アウトを取った数(投球回数×3)を対戦打者数で割ったものを1から引いた数字だ。つまり、何割の打者に出塁を許したか、ということになる。
併殺や失策を考慮していないので、厳密に言えば打者からみた出塁率と対応していないが、だいたい同じだ。
これを見て判ることは、北別府選手は全然打たれていないということだ。
通算の数字では、その活躍期間の長さにもかかわらず川口投手をさえ上回っているし、20勝した1982年の0.244、18勝してMVPを獲得した1986年の0.246を上回るのは、上の表の中では上述した1988年の大野投手しかない。
しかも北別府投手は、1982年は267回1/3、1986年は230回0/3というフル稼働でこの数字を出している。
要するに、北別府投手は打者から見て「打てない投手」であったことがわかる。
北別府投手は、大野・川口両投手と比較して三振や四球が少なく、勝負が早い投手(早いカウントで打たせる投手)であった。
打者1人にかける投球数が少ないから、先発して長い回を投げることができた。
早いカウントで打者が打ちに来るのは、その球を打てると思うからだ。もしくは、ストライクがどんどん来るので、見逃せばどんどん不利になるからだ。
実際、バットに当てることはできる。
だが安打を打てない。いくら打者1人にかける投球数が少なくとも、コンコン安打を打たれていたら結局は投球数が増えるし、そもそも継続的に起用されることもなかっただろう。
要約しよう。
北別府投手は全力投球をしていなかった。コントロール重視で投げていたのだろう。
それにもかかわらず、ストライクの球を投げても安打を打たれなかった。
ひとつには打者を翻弄した投球術もあるだろう。
だが、それとともに、卓越した球威がなければ抑えられない。
全力投球しなくとも、ストライクの球を打者が打てないという球威もまた、北別府投手の武器であったのだろうと思う。
通算勝利数213は、鹿児島県出身の投手としてはもちろん最多である。