電気自動車への転換が叫ばれている。

人類の持続可能な成長を目的として、環境負荷の軽減のため、燃料自動車から電気自動車への転換が提案されているのだ。そのことは日々ニュースになっている。

燃料自動車とは、ガソリンや軽油でエンジンを駆動する、通常の自動車のことだ。




本当に電気自動車はエコなのだろうか。

確かに電気自動車は排気ガスを出さない。だが電気を使う。

電気の発電の過程で燃料自動車以上の排気ガスを出しているとしたら何もならないし、また自動車そのものの製造工程でも燃料や燃料を消費して製造される電気を消費するはずだから、そこでもし燃料自動車を遙かに上回る排気ガスを出していたら、運用で回収するのは難しいだろう。

それらを考慮して燃料自動車と電気自動車のどちらがエコなのかを比較するのはたいへん難しいが、ざっくりでよければ金額を比較すればいい。

そもそも「お金」という考え方自体が異なる価値を共通の価値観で比較するための手段だから、燃料自動車と電気自動車のようにほぼ同じ土俵で勝負している二者については、おおよそコスト、すなわち投入されたエネルギーの量を反映していると見ることができる。

結論から言えば、現状では電気自動車は燃料自動車と比較してエコではない。

製品価格と維持費その他を含めた総合価格を基準にして考える限りでは、従来型の燃料自動車は、まだ電気自動車やハイブリッド自動車と比較してエネルギーコストが安い。

電気自動車がなかなか普及しないのは、結局は価格(製造コスト)と航続距離(電池の性能)の2点の問題である。

もちろん、燃料自動車のエネルギー源が石油に限定されるのに対して、電気自動車の場合は石炭、水力、原子力等多気に亘るので、化学工業の原料としても貴重な石油資源の消費を節約することができるという大きなメリットがあるが、エコであるとか化石燃料の消費量が少ないとか、そこまでは言えないのである。

さて、では将来的にはコストの低減と電池の性能の向上によって電気自動車に置き換わるのだろうか。それもなかなか難しい問題ではあるが、残念ながら現状の延長線上には電気自動車の普及は無いと思う。では普及しないのかと言えば、実際には普及するだろう。それは現状の延長線上ではない、何らかの技術革新がきっかけになるはずだ。

そのきっかけが何かはわからない。しかし、そう遠くない将来については見通しを立てることができる。

自動車と並ぶ陸上輸送手段である鉄道については、自動車よりも遙かに早くから電動車が普及しているが、それから100年以上を経た現在に至っても、いまだに電動車と燃料動車が並立している。燃料動車は既に蒸気動車とガソリンカーは駆逐され、主としてディーゼルカーが用いられている。

両者の棲み分けは傾向があって、列車密度の高い区間は電動車、低い区間は燃料動車が用いられている。

鉄道の場合は走行路が集約されている上に走路にブレが無いことから架線による集電が可能であり、駆動のための大型の電池を用意する必要がなかったことから、早くから電動車が普及したものと考えられる。

(JR東日本の蓄電池電車「ACCUM」。鉄道でもEV化の試みは進んでいる)

この歴史的事実は、今後の自動車の未来を占う上で一つの参考になる。

たとえば都会の中の一定区域、あるいは東京-大阪のような、まとまった交通量がある長距離幹線道路に限定して電気自動車の導入を進めることは可能であろう。

なぜならば、そうした区間であれば、仮に電池の発達が不十分であっても、代替の手段として走行中に集電できるシステムが開発されれば、投資に見合った需要を見込むことができるからだ。

ただしその場合に解決すべき問題が3つある。

ひとつは、現在のように、自動車(乗用車)が主として個人所有されている状況では、あらゆる状況に対応するためには、「都会限定の自動車」というものがどの程度普及するのかが疑問である。消費者目線で考えれば、自動車が威力を発揮するのは公共交通が普及していない郊外に繰り出す帰省や週末のレジャーであって、都会の中で行動する分には、多少の不経済を我慢すれば電車とバスで何とかなる。

2台持ちするほどの経済力はなかなか無いし、どちらか一方を選ぶとすれば、結局は郊外型、すなわち燃料自動車を選ぶことになっていく。

もうひとつの問題は貨物だ。ここまで主として乗用車を念頭において話を進めてきたが、自動車が不可欠なのはむしろ貨物の分野であって、それを郊外と都市で積み替えるのは、コンテナを利用してもかなりの余計な労力ニーズを発生させる。おまけにその重量からいって、貨物自動車の動力は乗用車よりもはるかに大きなパワーを必要とするため、対応する電池を用意するのもたいへんだ。

さらに第三の問題として、都会で電気自動車を運用する場合、ガイドレール的なものに添って走ってくれると、給電の面のみならず交通整理の面でも便利である上に、道路の幅員や駐車場のスペースも大幅に省略することができてたいへん有用だ。さらにその先にある自動化も見えてくる。ところがいくつかの現状の問題点がこの面での発展と完全に抵触してしまうのだ。

たとえば、コンビニエンスストアや小さな商店への商品供給のためのトラック、宅配便や郵便配達のためのトラックの路上駐車を認めないとすれば、現在の社会の物流は破綻する。逆に路上駐車を認めてしまうと、ガイドレール式の交通整理では、そのたびに道路が閉塞して混乱が発生することになる。

自転車やバイクの存在も妨げになる。歩行者もだ。車道に出てきた歩行者は死んでもやむを得ないなどとは絶対に言えない。しかし歩行者を車道から隔離するのもまた困難だ。

狭い路地であっても、向かいのお店に行くのに地下道とか歩道橋とかまで迂回しなくてはならないとすれば不便さに気が狂いそうになる。

かといって車道をすべて地下化・高架化したり、歩道を2階に上げてペデストリアンデッキ化するのはコスト面ではあまりにばかげている。

また、よっくすは上述の通り、都会限定とはいえ電気自動車が近い将来に普及する前提として過渡的な給電システム、つまり走行中の充電・給電を考えていたわけだが、そのための高圧電線から歩行者をどう守るかを考えなくてはならない。

それが無理なら結局は蓄電池の技術の進展を待つほか無く、電気自動車のメリットは単に加速・減速の際のエネルギーロスが少ないという程度の、はなはだおもしろくないところに落ち着いてしまう。

要するに、現在の都市の交通は、自動車を含めてある程度のカオスを前提として成り立っているが、そのことが電気自動車の普及の妨げになっている現状があり、一朝一夕にそれを改善するのも難しいということだ。

ただ、乗用車の問題についてはカーシェアリングシステムが普及すればおそらく解決する。自分で各種の自動車を用意しなくてもいいのだ。一定の会費を支払って、郊外では燃料自動車に、都会では電気自動車に乗れば済むことだ。

貨物についても、JR貨物で巨大な電気機関車が盛んに活動しているように、電気にパワーがないわけではなく、あくまで電池の蓄電量の問題であるので、解決の手段はあるのだろう。

したがって、かなりの部分で電動化の見通しは既に立っていると言ってよい。

現状では、各家庭の自動車の稼働率はけっこう低いが、カーシェアが進めば稼働率は上がり、したがって必要台数は減る。自動車は売れなくなるだろう。ガソリンスタンドの経営は成立しなくなり、おそらく都会から出てきた人が郊外型自動車に乗り換える「自動車だまり」ぐらいでしか給油できなくなる。現在の業態は衰退するのだ。が、そのカーシェアを管理するシステムの開発はいま、自動車メーカーのみならず各国各社が切磋琢磨して進んでいることだろう。

また、ここでは解決策に触れなかったが、電気自動車を普及させるための新たな都市設計も必要になる。そこにも商機があるはずだ。

考えるのも気が重いテーマではある。しかしほんの150年前には、都市に於ける貨物の輸送はすべて船に頼っていたのだ。それらは現在では跡形も無く消え、運河はほぼ埋め立てられて道路になっているではないか。

電気自動車の普及というのは、単なる自動車の進化では無く、都市の構造そのものの変革を要求しているのだ。

もしもその要求に応えることができたなら、日本と同様に過密で巨大な都会とさほど広くもないが人口が少ない田園地帯を抱える国々、たとえば東南アジア諸国の都市設計のモデルとなっていくし、そこにもまたはかり知れない大きな商機があるだろう。

世の中で何にどのくらいエネルギーが消費されているのかを考えれば、自動車のエネルギー源が石油から電気に変わったところでCO2の排出量の削減量など微々たるものでしかないとは思うが、そこに発生する商機には興味がわくところである。

 

 

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