なぜ地方から人がいなくなってしまうのだろうか。
それは仕事が無いからだ。この点は衆目の一致するところであろう。
なぜ仕事がないのか。
それは立地が悪いからではないだろうか。
あなたが会社を経営するとしよう。
その工場をどこに構えるだろうか。
最も立地が良いところを探すのではないだろうか。
一般常識として、同じ性能で100円と99円の品物があれば、100円のものだけが売れる。
99円の品物の売り上げは0だ。
価格が同じで機能に差があっても同様である。
2番ではダメなのだ。
有利な条件がある地域は、それを活かせばいい。
長野県の諏訪地方は山間の僻地だが、品質の良い水と大都市へのアクセスの良さを活かして、セイコーエプソンという立派な企業を生んだではないか。
しかし特段の産物も無く、市場に近いわけでもないところは、誰からも選ばれない。
九州で勝負するなら九州一、日本で勝負するなら日本一、世界で勝負するなら世界一の立地でなくてはならない。
コンビニエンスストアなどは商圏が狭いから、その商圏の中での1番が生き残る。
一見すると1番でないようなものが生き残っている場合もあるが、それは小さなニッチの中で1番を獲得しているということなのだ。
つまり「あのミニストップはファミマよりも行きにくいが、ミニストップのあの商品が買いたい」という類いの人にとっては、ファミマよりも立地が悪くてもミニストップが1番なのだ。
世界的に見れば、そもそも日本はその点で恵まれていた。
アメリカ大陸から船で太平洋を横断すれば、最初に到達するのは日本である。
特に、世界最大の人口を擁する中国へ船舶でアクセスするためには、日本のどこかを横切らなくてはならない。
さらに日本には豊かな農業生産に支えられた膨大な労働力が存在した。
その上、日本には、近代化を支えられるだけの燃料と原料の生産があった。
それらの条件をうまく活かして、日本は明治期に飛躍を遂げた。
現代では石炭や生糸の競争力は既に失われたが、交通の要衝を扼する地理的重要性は現代でも変わらず、その点が日本の繁栄を支えている。
だが、国内でも競争はある。
競争に不利な地点では、なかなか企業に振り向いてもらえない。
たまに奇特な企業に選んでもらえるかもしれないが、経済の原則を無視したようなそうした企業は、早々に競争に敗退して市場から去ることになる。
(鹿児島市の姉妹都市、ナポリ)
だから、他には無い有利な条件、その地域が1番である条件を、人為的に作りだせばよいのだ。
教育によって、ある分野で人材を輩出する1番の地域になればいい。
本ブログではしきりに語学を例に挙げてきたが、コンピュータープログラミングでも、生物科学でも、何でもよいのだ。
しかし1番にならなければ意味が無いので、たとえば語学ならば避けるべき言語がある。
英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、ドイツ語、韓国語の7つだ。
しつこいようだが「日本一」でなければ効果は0だということを忘れてはならない。
全国民に普及している英語や、国内に中国人街、韓国人街が形成されている中国語、韓国語で勝負するのは論外と言える。
なお、上記書く言語については地域振興の観点から意味が薄いと言っているだけであり、個人で学習することを否定しているわけではないことは付言しておく。
さて、語学の研修で必要なのは実践の機会であろう。
それをいかにして確保できるかどうかが、事業の成否を占うカギの一つになると思われる。
そのために必要なのは、とにかく住んでもらうことだ。
姉妹都市などの盟約があるのなら、彼の都市の人材を役場で職員として採用してもよいのではないかと思われる。
(鹿児島県の自治体の姉妹都市/友好都市。黄色は主要言語圏以外の都市)
いくら町を挙げて語学教育に励んでも、一個人では東京で専門的な教育を受けた人には及ばないかもしれない。
しかし、誰でもテルグ語で挨拶ぐらいできるような町があれば、そこで育った人材にはニーズがあるだろう。
以前から感じていたのだが、東京から鹿児島に来た人が鹿児島弁を覚えてみても、話す鹿児島弁はなんとなく不自然な感じがする。
同じく標準語交じりの鹿児島弁とはいっても、鹿児島から東京に行って方言が抜けた人の言葉とは違うのである。
思うに、新しく覚えた人は「良く使う言葉から方言化されていく」のに対して、忘れていく人は「あまり使わない言葉が方言のまま残る」からではないか。
幼いころから言葉が頭に染みこむとは、そういうことだろう。