今日は夫婦同姓の問題について検討する。




どういう結論が良いか、あるいは伝統か伝統でないか等々の問題はさておいて、どんなニュースを読んでても思うことがある。

それは、そもそも問題になっているのは氏なのか姓なのか苗字なのかということだ。

文字通り解釈すれば、氏と姓は家系に注目した符合(氏は男系で姓は女系)で、先祖が誰かを表したものである。

これに対して苗字(もしくは屋号)は家という組織に注目した符合で、現在どこの組織に属しているのかを表している。

したがって、よっくすの名前の上にも乗っかっているこれが氏や姓ならば結婚したからといって変えられないから、自ずと夫婦別々となる。

しかしこれが苗字ならば夫婦が別々などあり得ない。

諸外国と同じか違うかなどは、本質的にはどうでもいいことだ。

要するに別々でなければならない理由、同じでなければならない理由が、論理的に説明できるかどうかが大事である。

そしてこの場合、システムとして統一されてればどちらでもよいのだろうとよっくすは思う。

で、結局どちらにすべきかということは(よっくす自身の好みはあるが)ここでは措いておいて、一つだけ思うことを主張しておきたい。

それは上記の理由により、苗字というものは、現在の組織を表すものだから、新しい家ができるときには新しい苗字を作る必要があるのではないかということだ。

したがって、もし国が夫婦同姓システムを選択するのであれば、親離れしたときや分家したときには、新しい苗字を採用する権利があるはずではないか。

もちろん親と同じ苗字でもいいわけだが。

逆に、新苗字の採用が認められないというのであれば、それは苗字ではなく氏または姓だということになるから、夫婦各々、親から引き継いだそれが結婚によって変わるのはおかしい。

いかがであろうか。

例を見てみよう。

(北条時政の子女。順序は不同)

昔は実際にそのように運用されていたのではないだろうか。

上に挙げたのは北条時政とその子女たちだ。

北条時政はあくまで通称(苗字+名)であり、氏名は平時政という。

彼にはいちおう「朝臣」という姓もあるが、日本では姓は早くに意義を失っている。

その子義時は、江間という苗字を称していた。

父時政と並んで出仕していたが、北条家から2人出仕していたわけではなく、それぞれ北条家と江間家を代表して、個別に頼朝と主従関係を結んでいたのだろう。

もちろん親子だから一門としてのつながりは維持していただろうが、そもそも義時は嫡男でもなかったし、早くに分家して、その際に別の苗字を称するようになったのだろう。

もちろん、苗字は変わっても義時の氏は平氏のままである。

三島から下田を指して南下する際、伊豆縦貫道を選べば江間を、地道を選べば北条を通過する。

義時の姉は有名な北条政子だが、後に朝廷から叙爵された際には「平政子」と名乗ったはずだ。

源氏の頼朝と結婚したからといって、彼女が平氏であることは揺るぎない。

だが結婚と同時に苗字は変わり、「北条」ではなくなっただろう。

政子の結婚後の苗字はよくわからないのだが、その姉妹、畠山重忠に嫁いだとされる女性について見てほしい。

夫である重忠(平氏)戦死の後に、彼女は源氏の足利義兼の庶長子義純を新しい婿に取った。

そして、義純との間にもうけた泰国は、父義純からではなく彼女から畠山家の所領を相続したという。

このことから、先夫重忠に先立たれた後も、彼女は実家である北条家ではなく婚家の畠山家の人間として行動しているように思える。

政子と同様に彼女も生涯平氏であっただろう。

生まれたときは平氏、平氏の畠山重忠と結婚しても平氏、源氏の畠山義純と結婚してもやっぱり平氏のままだ。

しかしその苗字は結婚と同時に北条から畠山に変わっていた。

 

スポンサーリンク