かつて大中国という国があった。




東南アジアの片隅に、数年間だけ存在した国家である。

大中国は、ガオ・シェンタイ(高升泰)が1094年に建国した国である。

ソンコイ川、メコン川、サルウィン川といった大河の上流域に位置する。

そもそもこの地にはダリ王国(大理国)という国が存在したが、ガオ・シェンタイがダリ王国に取って代わったのである。

そこで、大中国の建国に至るまでのこの地の歴史を見てみよう。

 

雲南を始めて統一したのはナンツァオ(南詔)という国である。

ピルージ王が、738年にこの地の統一を果たした。

彼はタイ系ともチベット系とも言われる。

その後の南詔はときに中国の成都を攻撃したり、当時唐が領していたベトナムを占領するなど強盛を張り、シロン王の時代の859年にはついに皇帝を称したが、902年には滅亡した。

南詔滅亡後の混乱を収拾して937年に皇帝となり、ダリ王国を建国したのが、チベット系とされるデュアン・シピン(段思平)である。

いま王国と書いたが、日本と同じく、国王は代々「皇帝」を称した。

ダリ王国は長く続いたが、上述の通り1094年に至ってガオ・シェンタイが皇帝に即位。

そして国名を「大中」とした。

ダリ王国は滅び、めでたく大中国の成立となったわけである。

(大理石はダリ(大理)王国の特産物であった)

ところがガオ・シュンタイは1096年に崩御。

おまけに、政権をデュアン家に返すように遺言していたのであった。

かくのごとくして大中国の歴史はわずかに足かけ3年で幕を閉じ、再びデュアン家のダリ王国が復活したのである。

結局のところ、短命な大中国の歴史はダリ王国の歴史の一部であり、特筆すべき事も無い。

さて復活したダリ王国だが、1253年にモンゴルの侵入を受け、翌年には滅亡してしまった。

当時のモンゴルの国主フビライは、庶子フゲチにダリ王国の故地を与え、雲南王とした。

ダリ王国の旧帝室であるデュアン家は存続し、雲南王国(後に梁王国と改称)に重臣として仕えた。

1368年にモンゴルが中国を失って北方に追われると、梁王国は南方に孤立した。

その後もモンゴル人の王を奉ずる梁王国はしばらく存続したが、1390年、ついに中国の明に滅ぼされた。

ここに雲南はその歴史を閉じて、以来中国の支配を受けるようになったのである。

雲南滅亡の際に、馬三保なる10歳の少年が捕虜になり、中国の明によって去勢された。

この少年が後の鄭和、大船団を率いてインド洋を遠征した、あの宦官鄭和である。

雲南征服の後、勢いに乗る中国の明は1407年にはベトナムをも占領し、東南アジアに広大な国土を領するようになる。

もっとも明はベトナムを1428年には失陥してしまうのだが、雲南は死守し、現代の中華人民共和国に至るまで領有を続けている。

 

じつはその後も雲南が独立を回復する機会はあった。

明王朝の滅亡に際し、漢人将軍呉三桂は功績を評価されて雲南に封じられ、平西王と称して軍閥化した。

そして1673年、とうとう呉三桂は清王朝に対する叛乱に踏み切った。

呉三桂は力戦したが及ばず、1681年に彼の王国は滅亡し、雲南は再度中国に征服されたのである。

また中華民国発足直後の軍閥時代にも、雲南軍閥の唐継堯が一時独立を宣言した。

ただし呉三桂や唐継堯の目標はあくまで全土の征服であり、万が一に事が成ったとしても、雲南再独立の可能性はかなり厳しかったものと思われる。

中国による征服から略々600年、いまでは漢民族が70%を占めるまでになった。

しかしもともとタイ系、ミャオ系、チベット系などの諸民族が住んでいた雲南には、現代でも征服以前の原住民族が多数存続している。

そして、短命だった大中国の儚く消えた歴史を今に伝えているのである。

 

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