かつて日本は、世界に冠たる技術力を誇っていた。

そのさらに以前(昭和中期)には確か、made in Japanといえば「安かろう悪かろう」の代名詞みたいなものだったような気がするが、変われば変わるものだ。

さて、その日本が誇っていた多くの技術が流出したとされる。

そして、韓国や中国の発展の一助になったとか。




引き留められなかったのだろうか。

韓国や中国は高給をもって人を引き抜いたのだ。

高給に惹かれて外国に行くのは悪いことだろうか。

そうではないはずだ。

それがいやなら日本の企業も、もっと給料を出せば良かった。

だが出さなかった。

人材が流出するのも当然だ。


なぜ高い能力を持つ技術者に、高い給料を出さなかったのだろう。

ここには「貧富の差」に対する呪縛があるのではないだろうか。


繰り返すが、高い能力を持つ技術者~経営技術を持つ経営者も含まれる~は、相応の高給を出さなければ獲得できない。

そのことは、野球やサッカーを見れば一目瞭然だ。

だが、日本の社会はそれを是としてきただろうか。

否、だ。

日本では、社長に対してさえも、社員と比較して法外に高い給料を出すことを否定してきた。

社会に貧富の差があることを嫌ってきた。


それでも、かつては日本の企業は戦えた。

人材の流出・流入は少なかったし、人口の面では日本は大国だったから、日本社会全体が横並びで貧富の差を抑えていても、それなりの質の人材を確保できたのだ。


そもそも、「日本は貧富の差の無い社会」というのが幻想だったのではないだろうか。

日本国という小さなクラブで富を再配分することによって、高技能者の賃金を抑えるとともに、単純労働に対しても、それに見合わないような高給を与えることで、見かけ上日本全体が上流階級化したのではないだろうか。

そして、そんなシステムにも存在したはずの下流階級の役割を外国に押しつけてきただけではなかっただろうか。

それでいて閉鎖的な日本では、貧困の中にも志を持った外国の有能な若者が日本社会で挑戦することを許さなかった。

当時は日本企業が世界で勝てて裕福だったから、それができた。


だが時代は変わった。

海外勢は人材に国籍を問わなくなり、世界中から優秀な人材を集め始めた。

もはや日本人だけのチームでは世界では勝てないし、日本人も優秀な人は高給で引き抜かれて行く。


人材を「買い負けた」日本企業には、二流の経営者と二流の技術者しか残らなくなった。

極論すれば、それが現代の日本企業ではないだろうか。

政府官僚も同じだ。

官僚の給料や福利厚生を一生懸命責めるのは、要するに官僚には、今ほどの能力は要らないと宣言しているのと同じことだ。

その前に、だいたい月給何万円ぐらいの値打ちがある人材に官僚になってほしいのか、よく考える必要があるのではないか。


日本が再び競争に勝ちたいならば、優秀な人材に相応の給料を払うシステム、つまり貧富の差を認めるところから始めなくてはならない。

そして、そんな社会で貧困に陥りたくなければ、自らが高給に相応しい優秀な人材になるしかない。

子が貧困に陥らないためには、親が子にしかるべき教育を与えて優秀な人材に育てるしかない。

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国民が政府に要求すべきなのは、過度な富の再配分ではないのではないだろうか。

貧富の差を認めた上で、貧困層でも能力があれば富裕層に成り上がれるような、社会の流動性の保証を求めるべきではないだろうか。

それとともに、貧困層が子に良質な教育を与えたい際に採るべき選択肢を、政府のほうで用意しておいてもらえるように要求すべきではないだろうか。

金持ちでないと東大に行けないような社会では、先行きは暗い。

政府としても、企業としても優秀な人材の分母が大きい方が良いのだから、この点で国民と政府や企業の利害は一致するはずだ。


格差社会は良くないと、よっくすも思う。

もうかってるなら、少しは分け前を寄越せと言いたくなる。と、思う。

生活もあるし。

だが、格差社会は良くないと、教条的に決めつけるのではなく、格差社会の何が良くて何が良くないのか、いちど具体的に考えてみるのもいいのではないだろうか。

 

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