日本史の教科書では「満州国」なる国が登場する。

満洲の軍閥であった張作霖は日本の後援を恃んで半独立勢力となっていたが、彼が日本軍に殺されると、子の張学良は蒋介石政権側に寝返った。

このため日本軍は張学良を追放し、日本の傀儡である満州国を立てた。

これが国際連盟で問題になり、リットン調査団による報告を経て日本の国際連盟脱退に展開してゆく。

一方、蒋介石は満州国を断じて認めず、日本の敗戦によって満州国は崩壊し、中国に回収された。

中国では現在でも満州国を認めず、「偽満州国」と称している。

かなり雑だが、これが教科書的な満州国の位置づけではなかろうか。




だが実は、この当時、清王朝の故地にあって蒋介石が断じて独立を認めていない政権は他にもあった。

その第一はモンゴルである。

清王朝が滅亡寸前になると、清朝皇帝を主と仰いできた外モンゴルの諸侯はロシアの援助で独立を画策し、1911年12月には独立を宣言した。

そして1913年には、同様に独立を宣言したチベットと相互承認条約を締結して、互いに国家承認したとされる。

つまり、モンゴルだけでなくチベットも独立していた。

のちに後援者であるロシア帝国が崩壊してソヴィエト連邦となると、1921年にはモンゴルも社会主義国家に衣替えした。

世界で2番目の社会主義国の誕生である。

いうまでもなくソ連の傀儡政権であった。

そもそも「衛星国」なる単語が、モンゴルを表現するために生まれた単語だという。

当時の中国(国民党)政府はこれらを認めず、自国領と主張していた。

中国(国民党)政府がモンゴルを承認したのは1945年のことであるが、1953年に至ってこれを破棄し、以降はモンゴルを「偽蒙古人民共和国」と呼称した。

呼び名の点でも「偽満洲国」(=満州国)と軌を一にする。

ただし1953年の時点では中国主要部は中国(共産党)政府に手に落ちており、台湾を根拠地とする中国(国民党)政府の訴えは、領土問題としては現実性を欠いていた。

この他、モンゴルの西北にはトゥバという国家が存在したが、こちらはモンゴル以上にソ連の傀儡色が強く、ソ連とモンゴルの他に承認した国は無かったという。

つまり、満州国の時代には、清王朝の故地には中華民国の他に、「モンゴル」「トゥバ」「チベット」「満州」の4ヶ国が独立国と称していたことになる。

しかし満州国とは違って、ソ連のこうした行為は国際連盟で問題にならなかったように見える。

なぜだろうか。

おそらくそれは、ソ連が国際連盟に加盟していなかったためだと思われる。

詳細は省くが、このころ内蒙古には日本の後援する徳王政権、新疆にはソ連の後援する盛世才政権があり、これらは中華民国の一部であることは認めつつも、事実上の独立政権となっていた。

つまり、張作霖政権から満州国への切り替えは、日本が介入の方式を、ソ連の勢力圏下でいうところの「盛世才政権型」から「モンゴル型」に切り替えたということになる。

なお、中国本土(漢地)を統治する中華民国も、蒋介石と汪兆銘の両政権が並び立っていた。

まとめると下のようになる。

((満州国が存在した時代の中国とその周辺。国境、省境は現在のもの)

ざっくり言えば、青が枢軸国系、黄色が連合国系、赤が共産党系というつもりで描き分けた。

チベットも誰かの後援を受けていたのだろうと思うがよくわからない。

蒋介石政権はアメリカ合衆国が支援していたと思うが、これもよくわからない。

この時代には共産党勢力は政権としての実体がないが、彼らがソ連の支援を受けた勢力であったことは言うまでもない。

さて、このように分かれたのは、清王朝時代の統治の仕方に原因がある。

((清王朝の統治領域。国境、省境は現在のもの)

これが清王朝時代のおおまかな図である。

広大な地域を統治した清朝皇帝であるが、全土を単一の法によって支配したわけではなかった。

それどころか、満洲、モンゴルに対しては、「封禁政策」と呼ばれる、中国人の入植を禁じる政策をとっていたのである。

もっとも清王朝末期にはこの封禁政策も全面転換されるが、まもなく清王朝自体が滅亡してしまった。

封禁政策に象徴されるように、清朝皇帝は関東(満州)、漢地(中国)、モンゴル、イチェ・ジェチェン(回彊)、チベットを、それぞれの種族の習慣に従って統治していた。

いわば、五か国の皇帝を兼任したような、そんな存在であったのだ。

これを、満州国誕生時の地図と見比べると、結局はだいたい清王朝時代の区分ごとに政権が誕生したことがわかる。

そもそも「満州」なる名は、中国で明王朝が盛んだった頃に、中国の東北境外に住んでいた女真族が文殊菩薩を信仰したことから興った名前である(文殊=満洲)とされる。

そこで明王朝時代の中国とその周辺についてもざっくり見てみよう

(明王朝時代の中国と周辺。国境、省境は現在のもの)

明王朝は、中国人王朝としては最も支配領域が拡大した時代である。

上記のほか、永楽帝の時代には満州と越南(ヴェトナム)を征服したが維持できず、まもなく放棄を余儀なくされている。

唐王朝時代など、歴史地図等ではこれよりも遙かに広大な領域が描示されることもある。

しかし結局それは羈縻政策による現地王朝の形式的な従属によるものであって、その時代でも中国人自身は玉門関・陽関を極西として認識していた。

何のことはない。満州国があった頃の中華民国は、実質的に明王朝時代に逆戻りしてしまったのである。

さて、では満州国を含めた、清王朝の故地に誕生した各政権は、その後どうなったであろうか。

日本との戦争に勝った蒋介石政権も、その蒋介石政権を倒した共産党(毛沢東)政権も、明王朝時代の領域では納得できず、清朝皇帝の全領土を支配下に収めるために邁進した。

日本の後援を受けていた各政権を全て打倒し、新疆を回収し、チベットを滅ぼして、概ねその目的は達成された。

しかし結局、モンゴルとトゥバを版図に加えることはできなかった。

トゥバに至ってはソ連に吸収されてしまったのである。

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なお、本稿で示した地図は学術的な正確性を欠いた、不正確なものであることはご了解いただきたい。

あくまでよっくすの頭の中ではこんな感じになっている、というものを示したものである。

 

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