琉球国は、1429年に中山王尚巴志が沖縄島を統一して誕生したと言われている。

その後、1469年には重臣であった金丸が王位を簒奪し、尚円王となった。尚円以後は「第二尚氏」と称される。

中国(明)との朝貢貿易で入手した物資を日本や東南アジアに売りさばくことによって繁栄していたが、1567年、明の海禁緩和によって打撃を受け、またマカオやマラッカの繁栄に押されて衰えたとされる。

その後は日本と明との貿易の中継のみを事とするようになり、1609年には薩摩の侵攻に敗退してその付庸国となった。




以上の歴史を振り返ってみると、不思議な点がある。

(1)貿易の主力は本当に日華貿易の中継であったのだろうか。

(2)なぜ1429年の時点で統一され、繁栄したのだろうか。

(3)誰が資本を投入したのだろうか

まずは、琉球と同じく貿易を事としていた倭寇との関係を考えよう。

倭寇は14世紀の前期倭寇と、16世紀の後期倭寇に分類される。

一方で、中国の明王朝は日本に対して倭寇の取り締まりを求め、それに応じて15世紀には勘合貿易が実施されて倭寇は終熄した。

その後16世紀には、博多を押さえていた周防の守護大名大内氏の滅亡による勘合貿易の廃絶によって再び倭寇が活発化した。

しかし豊臣秀吉の全国統一によって後期倭寇も終熄し、その後は政権公認の朱印船貿易が盛行した。

教科書では、そのように教わる。


しかし、倭寇とは誰で、勘合貿易や朱印船貿易に従事したのは誰だったのだろう。

勘合貿易家や朱印船貿易家と倭寇とは、中国市場を争うライバルどうしなのだったのだろうか。

きっと違うだろう。

船を作るのも操るのも特殊技能だし、貿易には人脈も必要だ。

海賊産業が禁止されたからといって急に転職できるものでもないし、免許を交付されたからといって素人が急に貿易に乗り出して成功するはずがない。

同じ人物が勘合貿易や朱印船貿易を行ったり倭寇になったりすると考えたほうが自然だ。

そして、琉球統一の1429年頃は、どちらかといえば勘合貿易の安定期にあたる。

直接中国の物資を入手できるので、遠回りして琉球を中継する必要性は低かったのではないのか。

(とはいえ、細かくみれば将軍義持による遣明船中断期間中ではあった)


地図を見ればわかるとおり、実は琉球は日本と中国との中継点に位置しているわけではない。

当時、日本のうちで中国の経済の中心である蘇州・南京に最も近いのは五島であって、であればこそ倭寇は五島に根城を構えていたのである。

敢えて中継地点を求めるとすれば耽羅(済州島)があり、ここでも琉球と同様に日本語系の言葉を話した国が存在していたとされる。

ただしこちらは1416年には朝鮮に併合されてしまった。

そうしたことを考えると、この時期に琉球が俄に繁栄を始めるのは、日華貿易よりもむしろ、日本と東南アジアとの貿易を中継する必要からではないかと思うのだが、どうだろうか。

もちろん、主目的が中国製品でないというだけで、福建・広東に存在する半独立の海上勢力などが琉球貿易に関与していないとはいえないが、少なくとも中国政府とは無関係だったと考えられる。

(14~17世紀の東アジア。赤:倭人の根拠地。青:大陸諸国の主要都市。緑:朱印船の目的地)

さて薩摩に簡単に征服されてしまったのを見ればわかるとおり、琉球の国力は極めて貧弱であった。

Wikipediaによれば、1632年の琉球の人口は11万人であって、薩摩藩(本土)の30万人にも大きく及ばなかった。

石高でいえば5~10万石ぐらいであって、その実力はせいぜい大田原綱清とか二階堂盛義とか、そんなもんである。


そんな琉球に日華の貿易の中継によって豊かな国が成立するのなら、なぜ、より有利と思われる台湾にはそういう国が成立しなかったのであろうか。

台湾は中国国外ではあるが琉球よりも中国に近く、土地も広く、また人口も多かった。

特に日華貿易が巷間伝えられるとおりそれが日本の輸入超過であって、かつ中国の海禁を避けて中国国外に貿易拠点を構えるというならば、琉球よりも台湾のほうが有利であるはずだ。

しかし台湾が貿易拠点として知られるのは、ようやくオランダによる1624年のゼーランディア城の建設によってである。

それに続く支配者は日本人を母に持つ鄭成功。倭寇だ。

また台湾の南方のルソンは、やはり琉球よりも土地は豊かで人口も多が、その繁栄は1571年にスペイン人レガスピがマニラを占領してから始まる。

いずれも、その国家形成は琉球に大きく後れを取ったのである。

そうした中、人口は少なく中国から遠い琉球に、先んじて国家が形成された。


琉球は人口が少ないだけでなく、これといった特産物も無く、これでは自ら資本を蓄積して発展するのは難しい。

誰か資本を投入した者がいたはずだ。

もちろん朝貢貿易の下賜品は経済の刺激にはなっただろうが、それはあくまで既存の物流があっての話である。

琉球に投資した勢力が誰かはわからないが、日本からの物資が放散し、日本への物資が集積するのに有利な位置なのだから、少なくとも日本市場を見据えた投資であることは間違いない。

さて地図を再度よく見ると、沖縄島と宮古島の間が大きく開いている。

日本から島伝いに南下して沖縄島までは難なく到着できても、そこから宮古島に渡るには相当に慎重を要したであろうと想像できる。

いわば、日本から輸出される物資が滞留するのが沖縄島である。

逆に、日本に輸入される物資は、沖縄島にはあまり滞留しない。

琉球が統一された1429年頃、海外で何らかの日本製品の需要が高まったのではないだろうか。

この頃、世界ではいったい何が起こっていたのか


まず第一に、鄭和の南海遠征(1405~1433)が挙げられる。

これにより、インドやアフリカの物資が、それまでよりも活発に東南アジアに流入するようになったと考えられる。

これらは間接的に日本にも流入し、新たな需要を喚起したことだろう。

次に日本の情勢だが、足利義満によって南北朝の合一が成り(1392年)、続いて1401年には遣明使を派遣して勘合貿易が開始される。

南朝方の征西将軍府が掌握していた倭寇勢力が足利幕府に接収され、その海運力を活用した対外進出の機運が高まっていたことがうかがわれる。

1431年には、タイのアユタヤ王朝がカンボジアの首都アンコール・トムを攻略した。

見逃せないのが越南(ベトナム)の独立(1427)だ。

建国の勢いに乗った中国の明は、雲南(1390)・越南(1407)と、たて続けに東南アジア諸国を降して領土に編入したが、越南を維持することはできず、独立に至った。


勘合貿易の輸出品は、wikipediaによれば貴金属(金銀銅)、硫黄、扇子、刀剣、漆器、屏風とある。

気になるのは刀剣であって、もしこれが越南に輸出されていたら、独立戦争において大きな力となったことだろう。

中国沿岸を経由せずに越南に達することが可能かどうかはわからないが。

ただし、越南・タイ以外の当時の東南アジアでは、あちこちで戦乱はあったものの、歴史を塗り替えるような大きな変革は見当たらない。

だがいずれにしても何らかの大量に需要された物品を円滑に輸出するために、那覇や首里に大規模な資本の投下が行われ、結果として経済の急成長が琉球内の勢力のバランスを崩して統一に至ったのではないだろうか。

そして、最初は外国の船舶の整理が中心であったものが、いつしか琉球自身の技術も発達し、結果として1500年には石垣島を、1522年には与那国島を征服するに至ったのではないか。

先島諸島を領有することにより、日本製品の輸出基地だった琉球王国は日本への輸入もコントロールできるようになったはずだ。


それでは日本の輸入品は何で、日本にどういう影響を齎したであろうか。

交易のルートが開かれた以上、反対向きの流れは当然発生したであろうし、日本からの輸出品のひとつが貴金属であるということは、結局のところ日本の輸入超過であったことは否定しがたい。

Wikipediaによれば、日明貿易における日本の輸入品は明銭、生糸、織物、書物とされ、朱印船貿易では中国産の生糸や絹とされている。

ただし上にのべたように、よっくすは琉球貿易発展の契機は日本と東南アジアの間の中継であって、少なくとも当初は日華貿易は傍流ではないかという仮説を立てた。

この時点での輸入品の主力が中国製品でないとすれば、何だったのだろうか。

思うに、主力は奢侈品ではないのではないか。

むしろ生活必需品のうちに国産で賄えないものが無かったのか、見直してみる必要がある。

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輸出の点で気になったのだが、輸出するほど刀剣の製造が活発であれば、日本国内でも相当な量の刀剣が出回ったはずだ。

教科書的には、南北朝時代には鎌倉時代とは戦法が変わって足軽が新たに登場し、兵員数が大幅に増大したと説明される。

刀剣の流通量の増大はそれに対応したもののように思える。

しかし、実は刀剣だけでは兵士にはなれない。

弓矢も必要だろうし、何より鎧は欠かせないのではないだろうか。

そのためには、木材や竹材は国産できるとしても、獣皮や膠は輸入に頼るよりなかったはずだ。

現実には、琉球を通じて東南アジアとの交易路が活性化したことにより、これらの物資の大量調達が可能になったのではないだろうか。

その結果、足軽戦法の普及による兵員数の増大に対応することが可能となったのではないか。


鄭和の南海遠征の余波で象牙・犀角が日本の輸入品目に加わり、また鉄砲伝来の後には硝石が輸入品に加わったことだろう。

象牙・犀角の輸入は印鑑の使用を普及させる。

文書の発給が容易になり、戦国大名による広域支配を可能にしたはずだ。

硝石の重要性は言うまでもない。

少し後のことだが、亀井玆矩が「琉球守」の官位を所望して許されたのち、島津家の抗議で改めたというできごとがあった。

独占とはいえないまでも、1609年の琉球征服に先立って、豊臣時代には既に島津家の琉球貿易に関する何らかの既得権が認められていたことがうかがえる。

だとすれば、島津家は鉄砲の使用について非常に有利な立場にあったことになる。


鉄砲の丁数をいくら増やしても、発射できる回数は硫黄・硝石の供給量で制約を受ける。

島津家は領内で硫黄を産出する。

もし島津家が硝石の輸入でも有利であれば、たんに戦場で有利なだけでない。

日頃の訓練においても、他家では極力実射を控えるなかで、島津家だけは撃ち放題といった状況となり、兵の練度に大きな差が出るのは否みがたい。

戦国末期や朝鮮の役における島津家の大活躍の背景には、もしかしたらそんな状況があったのかもしれない。


最後に琉球尚氏について。

折口信夫は、肥後八代の名和氏の一部が沖縄佐敷に移って第一尚氏になったという説を唱えたそうだ。

Wikipediaでも触れられているが、尚巴志は琉球の佐敷出身であり、肥後八代の付近にも佐敷というところがある。

その説の可否は措くとしても、それならば逆に、鎌倉時代末期に忽然と現れて、船の力で後醍醐天皇を助けた名和長年が琉球人だったではないのか、検討してもよいかもしれない。

名和氏の家紋は帆掛船であった。土佐の長曾我部家も帆掛船の家紋を用いたと言われる。

 

 

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