地方における人材の獲得に大きな障害となるのが、子弟の教育の問題である。

既に教育を終えた当人はよい。

しかし自分は快適な地方生活を楽しむとして、子供はそれでいいのだろうか。

そこに不安を持たれてしまうとなると、いくら地域の魅力や仕事の充実を訴えても、人材の招聘には大きな問題を抱えることになる。




まずは、都会と地方の教育格差の現実についてみてみよう。

これは、2015年の東大合格者数上位14校の分布である。

14校のうち12校が首都圏に位置しており、地域格差の存在をうかがわせる。

だが、これだけでは単に近い大学を選択する傾向があるだけではないかという疑問もわくので、もう少し詳しくみてみよう。

下の表は、wikipediaで拾ってきた「都市雇用圏」なる指標で2015年に人口99万の静岡都市圏から67万の豊橋都市圏までの各都市の、人口10万人あたり東大合格者数を示したものだ。

なお「東大合格者数」はサンデー毎日平成31年3月24日号に掲載された前期合格者数(捕捉率90%程度)による。一方で、こちらは14~15万人規模の各都市。

グラフにするとこうなる。

まず人口67万人~99万人の諸都市だ。

同規模の都市間でも差がある。

鹿児島が突出しているのはラ・サールの頑張りによるものである。

ラ・サールは長期にわたり実績を挙げており、また他の地方都市でこれほどの実績を挙げている例が全く見られないことから、この実績が立地によるものではなくて、プログラムの優秀性によるものであるとわかる。

つくばは、企業や研究機関の集積が地域の知的水準を向上させているのであろう。

那覇の低さは問題だ。

しかし沖縄科学技術大学院大学(平成24年開学)による地域の知的水準の向上によって、流れは変わるのではないだろうか。

一方で、小規模の都市の実績は寂寥たるものだ。

絶対数ではなく、人口あたりの比率でこれだけの違いがあるのだから、人口規模による教育格差は「ある」と断定してよかろう。


さて、ではどうしてこのような教育格差が生じるのだろうか。

以下私見(といっても、ほぼ受け売りのようなものだが)を展開したい。


人口が集積した町には知的産業に従事する人口が多い。

ここでは、科学技術や経済に関係する職業を「知的産業」と称することにする。

メーカーで研究や開発に携わる人、銀行で地域経済について検討する人など多様な人が含まれるが、一言で言って近代科学の手法を用いて、数字を加工して創造的な仕事をする人たちと言えよう。


漁師の子が魚に詳しくなり、大工の子が建材や構造の専門用語を知っていたりするのと同様に、こうした職業の子は社会経済の動向に関心や知識を持ちやすいものである。

もっとも、ひとしく漁師の子とはいっても、家族が関心を持って日夜漁や商いについて語り合う家庭と、そうしたことをむしろ嫌って世間並みの話題を指向する家庭とでは、子において魚の知識量において違いが生じるかもしれない。

あまり意識されてはいないかもしれないが、それが漁師という特殊技能から家族が情報を引き出すことによって教育効果が表れる、ということなのであろう。

少々脱線するが、特殊技能者から情報を上手に引き出す家族の存在は、教育上重要ではないだろうか。

そのためには、家族の側も一定の予備知識を蓄えることが必須だろう。

子供は素直で単純だからというような、そんな難しい話ではない。

特殊技能者との向き合い方のロールモデルは、大家族でもなければ家族に1つしか存在しないのだから、子としては、相当成長が進むまでは、それ以外の方法が存在することを想像することができないということだ。

しかし平均を採れば漁師の子は魚に詳しくなりがちだとは言えるであろう。

知的産業家庭では、知的産業に従事する者の科学的知識や科学的思考法こそが漁師の家庭における魚のごとき特殊技能だということである。


 

 

さて、長じて学校に知識の詰込みを期待する親は一定数いると思うが、高校生ともなれば学校というのは生徒が既に持っている知識をどのように体系化して使いこなすのかというテクニックを教えるところであって、前提となる知識は子供がそこまでの成長の過程で予め得ているものである。

そうした知識が無い生徒は授業に臨む時点で既に学業という勝負に負けているのである。

受験勉強という偏った分野においては、知的産業従事者の知識や関心はそのまま応用できる場合が多いから、そういう家庭に育つ子供は、家庭環境の面ですでに受験に有利な条件を得ていることになる。


さらに知的産業に従事する家庭の余得として、「知識欲」が挙げられる。

サッカーで日本がタジキスタンと対戦すれば、タジキスタンの人口や面積、民族や言語、気候、歴史的事件や輩出した偉人などが気になって仕方がない。

紅葉を見ればその植物を同定したくなり、その分類学的位置や花の容色、結果の季節、近縁の植物、その植物に取りつく虫などが気になってくるのである。

だから彼らは朝から晩まで調べ物で大忙しである。

職業がそういう仕事だから、彼らは習慣として「自分が知らないこと」を探している。

そうした人が家族にいれば子も当然、生き方のロールモデルとしてそういう「型」が存在することを知るし、それが家庭内で尊重されていれば、少しは興味もわくであろう。

テレビで放映される、通り一遍のタジキスタンの紹介で納得してしまう家庭の子と比較して、知識の懸隔が生じるのは避けがたい。


大学受験は、大卒のキャリアを目指す人々にとっては人生における最初の勝負といえるが、実はそこで問われるのは論理的に考える力であって知識の量ではない。

しかし、論理とは知識を前提としたものであり、知識がない者は論理を語る前提が欠落しているのである。

一例を挙げれば、大学受験を突破した秀才は漁の現場では何の役にも立たないが、それは漁師として必要な知識と経験を持ち合わせないために、持ち前の論理力が役に立たないからである。

逆に漁師は、たとえば江戸時代の漁師は無学文盲であったかもしれないが、漁に関する知識と経験を十分に備えているからこそ海上で合理的に行動し、結果として魚を得て無事に帰還できるのである。

これら複数の原因によって、知的産業に従事する家庭の子は、家庭で勝手に育まれる知識の基礎によって大学受験に対して有利な環境に育つ可能性を具えているわけである。


そして、このような特徴を持つ知的産業系の家庭が増えて一大勢力となると、自ずとその雰囲気が他の家庭にも影響して、地域全体の教育水準を向上させるものと期待できる。

ここまではあくまで職業としての知的産業のみについて書き綴ってきたが、別にそうした職業でなくても好奇心というものは誰しも持っている。

ハイキングとか、鉄男・鉄子とか、野球とか、魚釣りとか何でも良いが、そうした趣味の世界にも知的好奇心の対象は広がっている。

たとえば野球についていえば、セイバーメトリクスという分析手法が広く普及し、いまや素人でもOPSやBABIPなどという指標を参照して観戦するようになった。

そもそも受験するのは子であって親ではないのだから、子が知識の集め方さえ覚えてくれれば勉学の面では親の役割はそこで終わりであって、親が秀才である必要は全くない。

別に親の職業が知的産業であってもなくても、要するに子の知的好奇心を刺激するような会話が大人の間で行われていれば、結局は期待する教育効果が得られるのではないか。

ただし、一般論としては知的産業系の親を持つ家庭の方が、会話の題材として科学技術や社会問題を嗜好する傾向はあるだろうから、お役所的に大つかみで考えるならば、知的産業に従事する人が増えて、地域に家庭教育のロールモデルを提供することが重要となってくる。

よっくすが言いたいのはそういうことである。

だがそうした見地に立って地域の家庭環境を改善していったとして、それだけで人材を引き付ける魅力的な地域になるだろうか。

これだけなら、人口を増やしましょうという月並みな話で終わってしまう。

地方自身の手でできることは他にないのだろうか。


一般論として、学校で1番になって、そこからさらに努力するのは大変難しい。

なぜなら、1番になった時点で、自分の学習モデルを批判的に検討して修正するための比較対照ができるモデルが無くなるからである。

本人が怠惰で、好成績に驕り、さらなる高みを目指すモチベーションが失われるから伸び悩む、というわけでは決してないのだ。

イチローならば、孤高に立ってなお建設的な努力の方向性を発見できるかもしれない。

しかし、受験戦士のほとんどは一般家庭に生まれた一般の子供であって、そうした一般人にイチローのような天才的な能力を期待するのは無理がある。

東大を例にとれば、年に1人東大に合格するかどうかという学校から東大を目指すには、才能の他に様々な偶然と幸運の連鎖が必要なのである。


東京では違う。

そもそも東大を目指し、そういう能力に恵まれた生徒は年に何十人も東大に合格するような学校に行くし、そうした学校は東京にはいくつもある。

つまり東京では学内でも学外でも競争の機会に恵まれており、常に自分の努力の方向性を修正しながら、無駄なく能力を向上させていくことができる。

結果、東大とは言わないまでも、東京の生徒は同じ能力を持つ地方の生徒よりも、よりランクが高いとされる大学に合格することができるのである。

その代わりに地方ならトップ校でも経験できる、種々の人間に囲まれながらの学校生活は犠牲になるのだが、目的を大学合格に絞れば、どちらの確率が高いかは問わずして明らかである。


こんなことは、今さらよっくすが切々と説かなくても、誰でも知っていることだ。

だから逆に、地方が子弟教育の不安を払拭して人材を引き付けるためには、ここのところを何とかしなくてはならない。

行きがかり上ここでは東大を指標として説明するが、地域のトップ高校は東大に毎年少なくとも数名は合格できるレベルを維持できなくてはならないだろう。

できれば、通学が認められる範囲にそうした高校が複数校、存在しなくてはならないのではないか。

1県で力不足なら、数県にまたがってもよい。

北関東を例にとってみれば、たとえば栃木県全域の生徒が宇都宮に進学できるというだけでは全然不足であって、宇都宮に加えて少なくとも高崎、前橋、水戸、土浦、郡山ぐらいまでは進学が可能であればどうか。

第二志望や第三志望まで受験できるような複数受験日が設定されていれば、優秀な生徒が髙いレベルの高校に挑戦できるだろう。

各校に優秀な教師を招聘できる権限が与えられていれば、そうした方面で進学実績を上げる努力もできるだろう。

寮が整備されていれば、そうした遠距離への進学をしても無理なく通学できるだろう。


経済の法則によれば、競争の結果は優勝劣敗の勝者総取りと決まっている。

それは学校間にも当然あてはまる。

敗色が見えた学校は別の個性を示して生き残りを図るだろう。

たとえば「海外の大学への進学」とか。


そうした進学の選択肢が用意されてこそ、子弟教育の不安が多少なりとも解消されて、人材の地方招聘の一助となりうるのではないだろうか。

行政的な問題で公立高校ではそれが無理だというならば、私立高校にその役割を代替してもらえるように、支援をするなり、公的な奨学金制度や寮制度を充実させるなりする施策が必要だ。

あるいは東京の中学・高校を受験できるように算段を講じるのがよいであろうか。

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最後に。

個別の事例においてはそれぞれ個々の事情があるはずで、よっくすが考えるとおりに努力したとしても、思い描いた通りのバラ色の結果が得られるとは限らない。

いじめに遭うかもしれないし、非行に走ってしまうかもしれない。

あくまで一般論として、平均を採ればこういうことがいえる(と思う)という話だということはご理解いただきたい。

またよっくすは教育の専門家ではないし、教育心理を勉強したこともない。

本稿で記述したのは、主としてよっくすの僅かな経験から見た景色であり、またそれに対して社会に期待したいことである。

 

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