前稿「103. 那須与一の賭け」においてよっくすは、那須の原野を支配していたのは牧畜と騎射の技能を持つ集団だったのではないかと書いた。

同様に、特殊技能が生活圏、勢力圏を決める例として、秩父を見てみたい。




秩父は、荒川上流の秩父盆地を中心に広がる一帯である。

しかし実は、「秩父」の範囲は秩父盆地にとどまらない。

下の地図を見てほしい。

これは1889年の町村制施行時に秩父郡に所属していた村である。青い線は河川だ。

ご覧の通り、荒川流域から分水嶺を越えて大きく東に広がっている。

現在では飯能市に属する吾野や名栗はもともと秩父郡所轄であったし、現在でも秩父郡に所属している東秩父村にしても、秩父盆地ではなく、入間川の支流の槻川流域に位置している。

単に山の両側に村が位置しているだけではない。

風布(ふうぷ)などは、村自体が峠の両側に分布していたために、その村域は現在では秩父郡長瀞町(盆地内)と大里郡寄居町(盆地外)とに分割されている。

たんに山沿いの集落だというのではなく、明らかに山自体を生活圏としている。

山の技術とはなんであろうか。

よっくすにはよくわからないが、乏しい平地からの上がりを補うようなものだろうから、食用の野草の見分け方、水源の位置や道路の配置の知識、野獣の見つけ方、魚の獲り方、そういったことだろう。

秩父では708年に銅が朝廷に献上され、これを受けて朝廷では和銅改元、和同開珎の鋳造などが行われた。

規模はわからないが、鉱山業も「山の知識」のうちではあっただろう。

こうした諸々の技術により、その郡域の東端は分水嶺ではなくて山地が切れて平野に変わる手前まで、ということになったのだろう。

現在の郡はだいたい古代の勢力圏だから、古代の知々夫国造の勢力が山地全体に及んでいた(が、関東平野には及んでいなかった)ことが知れるのである。

しかし時代が進んで技術が進歩すると、こうした棲み分けは実生活に合わなくなった。

だから名栗や吾野は高麗郡に属する飯能に吸収され、東秩父村も現在は秩父郡を称しながらも実質的に比企圏域として活動している。

結局、現代では秩父でも分水嶺が生活圏を分けており、人々が山間の平地で暮らすようになったか、もしくは平地の勢力が山地を圧倒したことが見て取れる。


こうした変化はいつ頃起こったのだろう。

平安時代に末期には「秩父平氏」と呼ばれる一族が活躍するが、その内容を見ると畠山重忠は大里郡、河越重頼は入間郡に根城を据えており、渋谷、稲毛、榛谷、小山田、葛西、豊島、江戸らの各支族もいずれも秩父郡外に居を構えている。

このことから、源平時代の時点ですでに、秩父郡の生産力は他郡に遅れを取っていたことが読み取れる。

農業の技術の進歩の大きさに比較して、山地の産業があまり進歩しなかったのであろう。

ここが馬匹の生産によって実力を維持した那須とは違うところだ。

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戦国時代に秩父を支配し、秩父新太郎と称された北条氏邦は、はじめ盆地内の天神山城に拠ったが、後に盆地から出て、盆地の入り口とも呼べる位置に鉢形城を構えている。

当時の秩父盆地では、氏邦の配下であった日尾城主諏訪部定勝が武田軍の侵入に対して泥酔のため対応できず、奥方が代わって出陣して撃退するという失態が演じられている。

昔ほどの重要性は無くなったが一定の生産力は維持しており、交通路としても重視されてはいたわけだ。

明治に入っても秩父困民党の蜂起、いわゆる「秩父事件」が社会問題となっている。

古代から近代まで、ちょいちょい歴史的事件に顔を出してくる、不思議な土地である。

 

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