コロナウィルス感染症の影響で、テレワークの普及が一気に進みそうである。
今日は学校に与える影響について考えたい。
まず、テレワークが進むと、そもそも学校の建物が必要なくなる。
毎日学校に来てもらう必要は無いので、全児童生徒を収容できる建物は不要になるのである。
そうなれば、1学級の人数制限や学校の規模の大小などはあまり問題にならなくなる。
授業はオンラインで、好きな時に見ればいいし、先生への質問時刻が「月~金、9:00-15:00」みたいな感じで定められるのだろう。
もちろん実験や実習にあたっては、児童生徒が集合する必要があるわけだが、毎日のことではない。
月に1回であれば、その時だけバスを仕立てて県庁所在地まで出向いてもいいわけだ。
学校の規模が無制限に拡大できるとすると、もはや児童生徒を各地区の学校に分属させる必要は無くなる。
全県一律で何段階かのレベルの授業を提供し、適したものを受講してもらえばいいだけだ。
県立高校においては「○○高校卒」などという肩書は無くなり、「鹿児島県第13位卒業」みたいな感じになるのではなかろうか。
もちろん現在の学校では授業科目だけでなく集団行動や社会生活の規律を学ぶし、小学校低学年においては託児所の代わりのような役割も担っている。
それらが無くなれば、困る家庭もあるのは理解できる。
しかしそれらは、今後は学校の役割ではなくなるのだろう。
たぶん学校の部活もなくなり、高校生向けのオープン参加の大会のようなものができる。
思えば、まだ学校が無かった江戸時代の子供が全く社会性に欠けていたわけでもないだろう。
おそらく今後は、お金を払って地域の託児システムみたいなのに頼ることになるのではないか。
少し多く払えば、授業の面倒も見てくれるかもしれない。
ここには社会的格差の萌芽が現れそうだ。
それはいけないことだろうか。そうかもしれない。
しかし、よっくすはすでに、住む町によって教育格差が生じていることを示した。
全国画一の平等な教育システムなどは、現時点ですでに存在しないのだ。
その点を再度確認するために、Gaccomで小学校の児童数を確認してみよう。
まず鹿児島県志布志市の5つの小学校(黒い棒)について見てほしい。
志布志市では長らく、市街地に位置する志布志小と香月小が多くの児童を集めていたが、郊外の安楽小もそれなりの児童数がいるようだ。
鹿児島市の3小学校(白棒)よりは少ないが、まずまずの児童数を確保している。
それに対して山間の潤ヶ野小、田之浦小の児童数は寂しい。
といって、田之浦小から隣接の志布志小までは12kmほども離れており、統合して毎日通学してもらうにはなかなか厳しい距離だ。
同じ鹿児島県内でも十島村の各小学校はもっと厳しい。
最大の中之島小でも、全校児童は14人だ。
小宝島は、東洋紡のPCR用試薬「KODdash」「KODplus」を生んだ名島だが、そこの小宝島小の全校児童は5人。
鹿児島市と比べると、いや志布志市と比べても、格差はあきらかだ。
いくら学校で集団生活に慣れるといっても、全校生徒300人の志布志小と5人の小宝島小では、その内容には大きな違いが生じる。
しかも離島である十島村の各小学校では、廃校にして集約するのも難しい。
どうしてもというのであれば、下宿せざるを得ない。
いくらなんでも小学校1年生の子に下宿を強いるのは酷ではないか。
実は同様の格差は都会の中でも存在する。
人口70万人の政令指定都市、神奈川県相模原市の各小学校を見てみよう。
清新小は、豪農原清兵衛が幕末に開拓した清兵衛新田の名にちなむ由緒正しい小学校で、少子化の進む現代でもなお900人もの児童を確保している。
同じく古い伝統を誇る田名、上溝の両小学校も、盛期と比較すれば半減しているが、その児童数はなお600人を越える。
一方で、同じ相模原市内でも山間部の津久井地区の小学校は概して児童が少なく、青根小に至っては10人未満と離島並みである。
人数が少なければ、たんに集団生活との関わりのみならず、教育レベルに多少なりとも影響が生じてくるのもやむを得ない。
相模原市ほどの大都会ですら、そうした格差が存在するのだ。
次に、栃木県日光市を見てみよう。大都会とは言えないが、東京に近く、まずまずの規模の都市である。
日光市の中心、今市地区に位置する3小学校は、さすがに数百人の児童を確保している。
しかし日光市は面積1400km2。沖縄島よりも広いのだ。
海抜1300mに位置する中宮祠小は全校児童13人。
しかし、統合した場合、隣接の清滝小学校へ行くにはいろは坂を降らなくてはならない。
平常時でもたいへんなのに、荒天時の無理な通行は命を危険に晒しかねない。
また住人の多くが観光業を生業とするこの地で、朝に片道30分の送迎を要求されるのは大きすぎる痛手だ。
市内北部の三依、栗山の両地区は、中宮祠小以上に危機的状況にある。
さてこのように、日本各地に見られる、いわば「限界小学校」にとって、テレワークによる教育の普及は大きな朗報だ。
全ての問題が解決するわけではないが、少なくとも提供される教育レベルの地域格差は大幅に小さくなる。
また私立学校は、校舎校庭への設備投資無く生徒数を増やすことが可能となる。
北海道の山奥に住みながら、東京の有名私立高校の授業を受講することも夢ではないのだ。
授業を1単位で切り売りするような学校も現れるのではないか。
もっと大きな目で見ても、建物の建設や維持のコストが減る分、より有効な投資ができるに違いない。
教師も教育に集中できるようになるし、教室が密室であるがゆえに起こる問題も大部分解消される。
不登校も問題ではなくなる。
影響は教育現場に留まらない。
かつてよっくすは、教育の地域格差が地方への人口移転の足枷となっている可能性を指摘した。
しかし、このように教育の地域格差が減少すれば、地方へ人を呼び込むための障害が一つ除去されるといえるのではないだろうか。
まして、コロナウィルス感染症が猛威を振るう現在、防疫の観点で地方の有利さは誰もが実感していることであろう。
テレワークの普及もあいまって、リスク管理のための、企業の、あるいは従業員の地方移転の機運が生まれるのではないか。
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学校は変わるだろうか。
それは分からない。
しかし、日本が変わらずとも世界の何か国では確実に変わるだろう。
もし日本が変わらなければ、置いて行かれるだけだ。
もし自分の子が、孫が、フィリピンやベトナムに出稼ぎに行って、食うや食わずやの生活を送りつつの必死の送金でぎりぎりで家族を養うような、そんな未来が嫌なのであれば、日本も変わらざるをえないのではないか。