安国寺恵瓊という僧侶がいる。

安芸の武田氏出身で、戦国大名毛利家の外交官として活躍した人物である。

切れ者であったようだが、最期は関ケ原の戦いに敗れ、責任を問われて死ぬ。




さて、安国寺恵瓊は織田信長と羽柴秀吉に関する予言を書状で書き送っていることで有名である。

それによれば

・信長の天下は3年5年が続くだろうが、ぼちぼち公家になるかもしれない。

・しかしその後、コケるだろう。

・一方、秀吉はなかなの者だ。

ということで、本能寺の変より9年も前の1573年、織田がそれまで担いできた足利義昭に叛いて戦争状態になっているような頃にこんな予言をしていたということで、恵瓊の人物鑑識眼はすごいということになっている。

しかし、この評価は、たんに信長、秀吉の人物だけを見て下されたのだろうか。

多少なりとも織田家の内部事情を反映しているのではないだろうか。


だいたい織田家ほどの大組織ともなれば、「天下統一の目標を掲げ、大名の号令一下、家臣たちが一致団結して一丸となって邁進している」などという組織像を考えるのは無理がある。

大なり小なり不協和音が生じているほうが自然である。

特に気になるのが、主君である信長と、現場指揮官である明智光秀や羽柴秀吉との関係である。

織田信長は、織田家全体を俯瞰して各自に必要な資本を与えて必要な行動を指示するだろうが、明智・羽柴は持ち場の成果を最大化するモチベーションで動いているはずだ。

中央の指示は現場の実情に合わせてアレンジされる必要があるし、その現場の状況も刻々変化するから、明智や羽柴にある程度の裁量が与えられるのは当然だ。

その裁量がどこまで許されるかについてだが、明智・羽柴としてはできるだけ現場の裁量を大きく取らないと現場の必要に機動的に対応できないし、織田としては可能な限り統制下に置かないと戦略全体が狂ってしまう。

そもそも構造的に両者の利害は一致していないのだ。

それに加えて個人の感情や野望がある。

組織が草創期であれば組織も小さいし少しの油断も命とりだから、多少の不満はあっても家臣は主君の言うことを聞くだろう。

しかし組織が拡大すると、少しは余裕が生じ、家臣団は組織が当然存続するものという前提でコップの中での勢力争いに走りがちである。

明智・羽柴のような立場にある者が自分の権限を強化するために小賢しい策を弄することは、よく見られる現象である。

たとえば、織田の指示と羽柴の指示が矛盾した場合、羽柴の寄騎はどのような行動を取ればよいのだろうか。

筋論でいえば織田の指示が優先するはずだし、羽柴に対して諫言という方法も考えられる。

しかし羽柴に逆らえば目の前の戦場において忽ち敗戦・戦死を招きかねないし、感情問題として無理な戦場を受け持たされたり戦功を報告されない等の報復も予想される。

まして戦場で唐突にそんな選択を迫られたら迷っている時間はない。

明智・羽柴のような立場の者は、必要を装いつつ敢えてそういった状況を作って寄騎たちに圧力をかけ、主君の権限を削り取っていくものである。

織田としてはそれが面白かろうはずがない。

たとえば、1582年に織田が武田勝頼を征伐する際に明智光秀が「われらも骨を折ったかいがあった」と述べたところ、織田信長が「お前ごときが何をしたのだ」と激怒し、森蘭丸に明智を殴らせたという逸話がある。

事実としてそれがあったかどうかはわからないが、もし織田と明智の間に権限分配をめぐる鞘当てがあったとすれば、双方大人げないように思われるこんなやりとりも、なんとなく納得できてしまうのである。


一方で1580年、織田信長が重臣林秀貞・佐久間信盛を追放した裏に明智光秀の讒言があったとする説がある。

そもそも林・佐久間の追放理由とされるものはほとんど言い掛かりであり、なぜこの時期に理由にもならない理由で追放されたのかは謎とされている。

ただ、追放というのは、本人が消えるだけでなくて隠居後継を認めないということだから、佐久間の地位を継承した明智による讒言というのもありそうな話ではある。

それがたんなる悪口ではなくて、もっと本格的な家臣同士の諍いであった場合、織田としてはどう対応すればいいだろうか。

それは荒唐無稽な話ではなく、現実に羽柴秀吉は北陸の陣で柴田勝家と口論に及んで職場放棄事件を起こしたし、明智光秀は稲葉一鉄との間に深刻な対立を抱えていたことが知られる。

織田家は四方八方に敵を抱えて、ぎりぎりの経営を続けているのだ。

そもそもが流れ者であった明智・羽柴であるから、身は軽い。

もし織田に愛想を尽かして他国に流れれば、せっかく軌道に乗った征服事業が頓挫する可能性がある。

それでも身近に強敵を抱えている状況では対応する余裕もなかったであろうが、松永久秀や荒木村重が滅び、本願寺が降伏してしまうと、もはや近畿に敵はいない。

織田としては問題の先送りはもはや許されず、林・佐久間をかばい切れなかった、というようなストーリーも、可能性の一つとしては考えられるのではないだろうか。

織田の考えはわからないが、特に佐久間信盛は一貫して織田信長に忠義を尽くしてきた最古参の家臣である。

織田家がまだ尾張の一地方勢力だった時代、林や柴田勝家が織田信勝に味方した時にも、佐久間は信長を支持し続けたのだ。

しかし、結局は追放した。

もちろん、佐久間が使えない人材だった可能性もある。

しかし「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に、退き佐久間」と称され、

羽柴、丹羽、柴田と並べて佐久間を評価する言葉もある。

佐久間の評価はここでは擱くが、要するにもし織田に対して明智・羽柴が理不尽な要求を突き付けてきたとしても、織田としては無下にもできないのである。

そういった要求を正面切って堂々と突き付けてくれれば対処も楽だ。

しかし面と向かってノーとは言わないが実際には言われた通りにはしないというような、面従腹背の態度を取られると始末が悪い。

わずかにルールを踏み越えては主君の反応を見るというような形で既成事実を作って事後承諾で押し通そうとする、サラミ戦術とも称される陰湿な形で主君に圧力をかけてくる姿を想像するほうが、むしろ現実に合っているのではないか。

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さて冒頭に戻る。

繰り返すが、安国寺恵瓊が織田と羽柴を評したのは、単なる人物の評価ではなかったのではないか。

権限を削り取ろうとする家臣と統制を守ろうとする織田、そうした織田家内部のせめぎあいにおいて織田の旗色があまり良くなく、織田信長の存在が家中で浮き上がりかけていたのだろう。

その一方で強大な組織の力を背景に朝廷対応や外交政策は比較的うまく進んでいるという、そうした織田家の構造が、安国寺書状の背景にあったのではないだろうか。

 

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