もはやありふれた存在になったキラキラネーム。
日常にありふれてきたがゆえに、話題に上がること自体が少なくなった。
では、キラキラネームはどの程度、普及したのであろうか。
キラキラネームに対するものは、しわしわネームであろう。
ではしわしわネームとは何か。
本稿では、「漢字2文字」「訓読みで4音」という形式に従うものをしわしわネームと定義する。
なぜならば、江戸時代以前の日本では、名のある公家や武士はこの形式に従った名を名乗っていたからだ。
織田信長も、源頼朝も、話題の明智光秀もそうだ。
ときに洞院実雄とか渡辺綱のような例外もあるが、99%以上はこの形式を守っていたのではないか。
逆に「音読み」になると、出家入道の匂いが濃厚に漂ってくる。
そう、在家は訓読み、坊主は音読みという住み分けがちゃんとできていた。
日本人の名前を網羅的に調べることは、よっくすに許された時間では到底無理なので、プロ野球のドラフト指名選手の名前を調べてみよう。
平成27年のドラフト会議で指名された選手は115人。
この中にしわしわネーマーは14人いた。
今を時めくオリックスの吉田正尚、広島の岡田明丈といった選手たちがそうだ。
しわしわ率は12%。
多いと思うか、少ないと思うか。
次に昭和40年、第1回ドラフト会議を見てみよう。
この年のしわしわ率は23%。
意外に低いのではないか。
この年指名された近鉄の速球王鈴木啓示、阪急の主砲長池徳二、巨人のエース堀内恒夫といったところは、いずれもしわしわネームではない。
ところで昭和40年(1965)から平成27年(2015)まで、ちょうど50年。
その中間の平成2年(1990)はどうかというと、なんと41%ものしわしわ率となっている。
代表的なしわしわ選手として、マシンガン打線の中核鈴木尚典、MLBでも活躍した長谷川滋利、現在阪神の監督を務める矢野輝弘らがこの年指名された。
これはどうしたことだろうか。
昭和40年だけが特別に少なかったのか、あるいは平成2年だけが特別に多かったのか。
それを考えるために、まずは昭和40年の3年後、昭和43年を見てみよう。
この年のしわしわ率は28%。
昭和40年と同様、思ったほど高くない。
たとえばミスター赤ヘルこと山本浩司、その盟友であった阪神の田淵幸一や中日の星野仙一らがこの年指名されたが、彼らは非しわしわ派であった。
一方で平成2年の3年前、昭和62年はというと、この年のしわしわ率はやはり41%。
平成2年と変わらぬ高さである。
この年指名された代表的なしわしわ選手として、史上最も有名な二世選手である長嶋一茂、世紀末の中日を象徴する立浪和義らがいた。
以上より考えると、しわしわネームとは必ずしも古い伝統ではなく、平成から昭和の変わり目頃にドラフト指名された世代、すなわち高度成長期から第二次ベビーブームのころに生まれた世代の一過的なブームだったのだ。
考えてみれば、ドラフトよりさらに古い選手である長嶋茂雄や野村克也はしわしわネーマーではないし、それどころかプロ野球草創期に活躍した景浦将や澤村栄治、藤村富美男らもしわしわネーマーではなかった。別所昭や青田昇もそうだし、杉下茂や小鶴誠もそうだ。
もちろん一方で川上哲治、金田正一、王貞治、山内一弘といったしわしわネーマーが存在したことは事実だし、意識したかどうかは別として、その漢字2文字、訓読み4音という形式は古い伝統を踏まえたものではあるのだろうが、古い時代から一貫して全国民がしわしわネームを名乗っていたというわけではないのだ。
|
ただし、昭和40年代のドラフト指名選手の名前の大半は読めた。
ときに特異な読み方をする場合もあるが、それはあくまで例外であった。
一方で、平成後期のドラフト指名選手の特徴は、読めない名前がかなり現れるところにある。
文字を見ても名前が読めないというのは、おそらく世界史的に見ても現代日本だけに認められる、かなり特別な現象だ。
なぜならば文字は人に効果的に情報を伝達するための手段であって、その都度教えないと読めないようでは文字を用いる意味がないからだ。
だから文字は、万人が約束された読みに従って使うという前提で使用されてきた。
そのはずだった。
だが考えてみれば、苗字には読めないものがたくさんある。
難読苗字というやつだ。
いまやようやく、名前が苗字に追いついてきたとは言えまいか。
常識を覆しつつあるキラキラネーム。
今後の展開に期待したい。
(文中、敬称は省略した)