初めに断っておくが、本稿は受け売りである。
例によってどのサイトだったのかわからなくなってしまったので引用はできないが、目から鱗だったので、よっくすなりに若干の解釈を加えて紹介したい。
昭和末期の日本では、校内暴力、ついでいじめが常態化して社会問題となっていた。
教育が知識の詰め込みに偏重していることや、過度の競争によるひずみに対する反省から、ゆとり教育は生まれたのだ。
だから当時はゆとり教育には必要性があった。
しかし後から振り返れば、必要なのは詰め込み教育を緩めるよりはむしろ、教育方法の工夫や心のケアであっただろう。
ゆとり教育は逆に、勉学の軽視という弊害を生んだ。
勉強だけが全てではないという程度ならまだよいが、勉強ができないことを誇ったり、勉強ができる子を馬鹿にするなどは明らかに行き過ぎだ。
だがそうした風潮も一部には確かに存在していた。
そもそも中学校や高等学校の勉強など、所詮はルールのある点取りゲームであって、その点では野球やサッカーと何も変わるところがない。
だから本来は勉強というものは、野球やサッカーと同様に、楽しくできるはずのものなのだ。
青春時代の大部分を勉強に費やさなくてはいけないことは、はじめから決まっているのだ。
どうせやるなら、楽しくやったほうがいい。
考えてみてほしい。
野球やサッカーなら補欠は試合に出ることができないが、勉強ならばどんな阿呆でも試験を受けることができる。
甲子園は負けたらお終いだが、試験ならば落ちこぼれでも学校のスターと最後の1日まで戦うことができるのだ。
どうだろうか。勉強も悪くはないだろう。
そして、野球部で野球ができる子が偉いのと同じく、学校では勉強ができる子が偉いに決まっている。
このようにして東大生は、日本で最も多くの子が参加するゲームの勝者なのだから、もっと尊敬されなくてはいけない。
ただし勉強ができて偉いのは勉学の世界の中だけであって、学校の外ではまた別だ。
そして勉強をゲームとして楽しめるのも大学受験までで終わり、以後は培った学力を実世界に展開する力が問われることになる。
そのことを教えるのもまた教育だろう。
昭和の子の競争相手はあくまで同じ日本の子たちであった。
だから勉強ができなくても落ちこぼれる程度で済んだ。
勉強なんかできなくたって、健康であればよかった。
しかし、現代の子の競争相手は世界だ。
昭和の子と比べると、はるかに過酷な競争の中に生きている。
勉強ができなければ、大人になってから中国人の秀才たちにあっという間に蹴落とされて極貧の生活を送るしかない。
今のところ、いくつかの職業は勉強しなくても就けるように見えるかもしれないが、それらもやがてそうではなくなる。
最近よく、日本人は労働生産性が低いという論説を耳にするようになった。
簡単に言えば、日本人は給料が高いわりに働きが悪いということだ。
その意味するところは様々に理解されており、オフィスにおける業務の効率化などが進められているが、たぶんそういうことではないと思う。
おそらく、労働生産性が議論される場合に論者が本当に言いたいのは、日本では労働生産性が上がりようのない仕事に対して給料が高すぎる、ということなのだろう。
その一方で、労働生産性が高い知的集約産業に対して支払われる給料が安いために、そうした人材を確保できず、知的産業が成長しない。
これらのことから、結果として日本では労働生産性が低い、ということなのだと思う。
であれば、今後、生産性が低い職業の収入はどんどん下がっていくに違いない。
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これからは、勉強ができなければ、健康な生活を送ることもできなくなるのだ。
子自身は学校にいればそんなことに実感がわかないだろうが、親はそんな危機感を持ったほうがいいのかもしれない。
そして大人も勉強しよう。
親が本の1冊も読まずして子が勉強するわけがない。
たとえ子が今の学校で落ちこぼれたとしても、世界で最下位だというわけではない。
そして世界での順位を1つでも2つでも上げておいたほうが、ゆくゆく身の助けになると思うが。