よっくすは昔、神奈川県の田名というところで貝の化石を拾ったことがある。

拾った場所は海抜50 mぐらいなので、かつてこのへんに海岸線があったということになる。




仮に現在の海抜50 mが海岸線だとすると、関東地方の海岸線は図のようになる。

利根川や鬼怒川の扇状地を除けば関東平野はほぼ水没するが、筑波山が半島のようになって突き出していることがわかる。

事実、筑波山は関東地方のかなり広い範囲から見える。

筑波山は古来男女交歓の場として音に聞こえているが、関東地方の中でなぜ筑波山がそういう存在なのかは一目瞭然である。

もし海抜50 mが海岸線だったら、関東のどこからでも、筑波山まで舟でまっすぐに到達することができたことだろう。

 

さてこの海抜50mが、群馬県と栃木県の県境、およそ桐生と足利の間を通る。

桐生、足利付近の地形は図のようになっている。

等高線が密なところを山地として赤く塗り、等高線が疎のところを平野として緑に塗った。

青線は主要な川、黒は鉄道、緑は高速道路である。桐生と足利の間は谷間となっており、両都市はその両側の口に位置している

さて古来桐生は上野、足利は下野に属しているが、この国境線が不思議な場所を通る。

そもそも両国はおよそ足尾山地と渡良瀬川を境としている。

ところが桐生付近では足尾山地の稜線ではなく桐生川を国境としており、このため桐生市街を国境が突っ切る形となっている。

桐生と足利の間にはたいした集落もないのに不思議なことである。

そして、足利付近では渡良瀬川を南に越えていくつかの集落が下野に所属していた。

さすがに桐生付近では県境が稜線に変更され、かつての足利郡菱村が桐生に編入されたために、町の中を県境が通る不合理は解消された。

しかし、足利付近では、いまでも川向う、かつての梁田郡が栃木県足利市に属しており、東武伊勢崎線の足利市駅も渡良瀬川の南岸に位置している。

だが、もしここに海岸線があったらどうであろうか。もしくは海跡湖でもよい。

よく見ると、海抜50mの等高線がちょうどこの辺りを通っている。

また事実として、いまでもここからほど近い群馬県邑楽地区には、城沼、多々良沼、近藤沼といった湖沼が残存している。

もしもかつての海や湖沼が堆砂で埋まって現在の地形が形成されたとすると、かつての海岸(湖岸)は、部分的にはさらに奥にあったかもしれない。

もし現在の桐生市街が現在のような扇状地ではなくて海面だったとしたなら、そこに国境を引くのはきわめて自然だ。

そして海が次第に干上がり、最終的に平野になれば、自ずと国境線は河川に収束せざるをえない。

一方で足利付近についてみてみよう。

渡良瀬川南岸の旧梁田郡域には、いくつかの小さい高地が点在する。

もし仮に現在の海抜50mがかつての海面だったとしても、その時代にも沖にいくつかの島が存在していたはずだ。

それらは、太田の丘陵よりも足利の山地のほうが距離的に近いから、自ずと足利の一部ということになる。

そして次第に海が干上がってみると、あら不思議、予想に反して小島は海の向こうの上野側につながってしまい、渡良瀬川は足利を分断するように流れてしまった。

そういう経緯を想像すれば、下野が川の南岸にはみ出しているのも容易に納得できる。

要するにこの不思議な上野・下野国境は、かつてここが海だったとすれば特に問題も無く理解できるのである。

もっとも、現在の理解では縄文海進の時代でも水位の上昇はせいぜい数mだということだから、古代の郡域が定まった時代にここが海だった可能性は低いのかもしれない。

しかし、両毛のみならず常陸、下総、武蔵を含めたこの付近の国境の定まり方としては、国が形成された際には海もしくは湖が存在したことを想定すると理解できるケースが他にもあるのではないか。


思えば、上野、下野という名前も不思議だ。

これは毛野が分裂してできた名前であるわけだが、多くの国では分割の際に「前後」の字が用いられてきた。

たとえば吉備は備前・備中・備後に、高志は越前・越中・越後に、筑紫は筑前・筑後に分割された。

なぜ毛野は上下なのか。

都に近いほうが上だというが、そうではあるまい。

事実として、上流が上毛野(上野)、下流が下毛野(下野)だったのではないか。

古代の毛野は日本有数の大勢力だったということだが、おそらくその中心は現在の群馬県~栃木県足利市、渡良瀬川の中下流域だったのではないか。

そしてこの桐生~足利間の谷間を境に上流側と下流側に分裂し、下流側が東方に新たに開けた土地と、その向こうの諸部族を征服して下毛野の領土を築き上げたのだろう。

それが証拠に、関東地方の中でも栃木・茨城は独特の方言を有するのに、足利だけは栃木県にありながら群馬県~神奈川県~千葉県と同様の方言を話すではないか。

そのことは、足利がもともとは毛野の上下分裂の一半であり、足利以外の栃木県域は足利に征服された異民族だったことを示しているのではないか。

結論を言えば、なぜ上野・下野なのかといえば、古来桐生~足利に居住した毛野が、入江を境に渡良瀬川流域の「上の毛野」と湾口(足利)の「下の毛野」に分裂したのだろう。

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古代の毛野の跡を引き継いだ中世の勢力は足利氏であろう。

足利氏は源頼朝の挙兵にあたって一族が分裂し、宗家の足利俊綱・忠綱父子は没落する。

しかしその一門は東は佐野から西は桐生、山上、大胡までの広がりを見せており、江戸時代に至るまで相応の活躍をみせた。

そして足利宗家の滅亡と入れ替わるように、源義康を祖とする「もう一つの足利氏」が登場して、活躍を始めることになる。

 

 

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