のっけから申し訳ないが、森会長の発言の評価はよっくすにはよくわからないし、辞任が適当かどうかもよくわからない。

だが天照大神は女性、卑弥呼も女性、神功皇后も女性であって、日本の歴史は女性から始まっているというのに、いまこんな議論になっているのは残念なことだ。




女性差別の解消を目指すべきだという点では、誰にも異論は無いものと思う。

おそらく森会長にしても、この1点については完全に合意してくれると信じている。

女性が女性だというだけで差別を受けるいわれはない。

それにもし根っからの差別主義者がいたとしても、人間の半分を初めから排除するような組織では、現代社会ではもはや能力的に戦えないということを理解しているだろう。

問題は、その具体的なやり方である。


道路でたとえると、悲惨な事故を少しでも減らしたいという目標については誰もが合意するのではないか。

だがそこで、事故を起こす人は安全運転を分かっていないのだといって、事故を起こした人を片っ端から死刑にしたら事故は減るだろうか。

そうではないだろう。

必要なのは、事故を減らす効果がある交通ルールを作り上げ、標識を立てたりして認知浸透させることではないだろうか。


女性差別解消についても同じことが言えないか。

女性差別はいかんというような、既に誰もが当たり前に知っているような、それでいて漠然とした理念を何度周知しても効果は薄い。

女性差別はいかんという意識を的確に伝えるためにはどのように表現すればよいのか、そういう技術が必要なのではないか。


たとえば、「女性は」「男性は」という括りをやめて、「あなたは」と言ってみよう。

「女は話が長い」

「女は結論を求めているのではなく、聞いてほしいのだ」

「男のくせに器が小さい」

そのように言うのはやめて、

「あの人は話が長い」

「あの人は結論を求めているのではなく、ただ聞いてほしいのだ」

「あなたは器が小さい」

このように言えば、角が立たない。

いや角は立つかもしれないが、少なくとも社会問題化はしないだろう。


守るべき価値と守るための技術が明確に言語化されていないから、「男女差別」という言葉についても人によってイメージするモノにズレが生じてしまう。

結果として時に本人にわけのわからぬままに袋叩きに遭ったりする。

たとえばよっくすは、女性を差別しないというのは「女性だからという理由で区別しないこと」だと考えているが、「女性に優しくすること」だと考える人もいる。

この違いによって、場合によっては行動に決定的な違いを生じるだろう。

何しろまだ歴史の浅い概念なのだ。

自然に生活していてそうした言語的な技術が身に付くのは難しいのだから、我々が自らルールと技術を作っていかなくてはいけない。

基準が具体化されて共有されておらず、誰もがマイルールで判断しているため、現状はまるで地雷原を目隠しして歩くような状態になっている。

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ほんとうに大事なのは、今回のような問題を契機に守るべき価値を具体的に明らかにして、それを守るための発言の技術をみんなで作り出し、社会的合意を積み重ねて浸透させていくことではないのか。

森会長の辞任の是非はよくわからないが、辞任で議論を止めたなら、結局はしくじった仲間を一人排除してお茶を濁しただけ、ということになってしまうように思うのである。

 

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