バブルの余韻がまだ冷めやらぬころ。

「あくせく働かなくても、ほどほどに働いて、ほどほどに暮らせればいい」という言葉が人口に膾炙した。




いやバブルの時期、もしくはもっと前だったかもしれない。

いずれにせよ、高度成長期を支えた、働け働けのモーレツ社員の時代への反省から、より人権に配慮した働き方をすべきではないかという考え方が生まれ、その流れで(あの人たちのように)「あくせく働いて豊かにならなくても、ほどほどに働いて、ほどほどに暮らせればいい」と、そういうことだったのではないかと思う。

父親は一家の大黒柱として家庭を顧みずに会社に奉仕することが美徳とされ、大家族が解体され、都会に出てきた核家族の中で母親は1人で家庭を守ることが良しとされ、子供たちが通う学校では暴力教師、校内暴力、ついでいじめが問題となった。

今思えば、長時間働くことそのものよりも、職場の人権環境やそれを許容する社会こそが問題の核心だったのだと思うが、なんか反動で「一生懸命働かない」ことが一つのステイタスとして存在していた。

短時間、一生懸命働けばよかったのだが。

もちろんそうした人も多数いた、というより、むしろ多数派だったと思うが。

問題は、「ほどほどに働いて、ほどほどに暮らす」のうち、「ほどほどに暮らす」生活水準について、どの程度を想像していたのかということだ。

1日3食を食べることができて、病気になったら医者に掛かれて、それだけでいい?

それは貴族の暮らしではないか。

冷静に考えれば、「ほどほどに働いた結果得られるほどほどの暮らし」は、病気になっても医者にかかるのはあきらめて、1日1食、ぎりぎり死なない程度に食べられる程度の水準なのではないか。

1日3食で医者にかかれる生活というのは、世界中の人が望んでも得られない贅沢な暮らしではないか。

1日3食を食べて医者にかかりたいのであれば、知恵を絞りつくして死ぬ気で努力しなくてはだめだろう。

失われた30年はだれの責任なのか。

政府の責任なのか。それはあるのかもしれない。

しかし、ほどほどに働く程度で1日3食医者付きの生活を望むような怠惰な国民のもとでは、仮に政府がどんなに素晴らしい政策を採用したとしても、100年でも200年でも失われていくだろう。

 

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