源頼朝の挙兵に始まる鎌倉幕府は、結果として北条家の独裁に帰する。

北条家は、源頼朝の舅であった北条時政に始まる家である。




教科書的には、源頼朝の縁戚であるがゆえに挙兵当初から軍団を主導した北条家が、そのまま鎌倉幕府でも最大の功臣として力を振るい、頼朝の死後には幼冲の将軍を擁して幕府を揺るがす他家の叛乱を次々と鎮める過程でいっそう力をつけ、源家将軍の断絶によってついに独裁的な権力を握るに至ったものとされている。

他家の排斥というのは、1199年の源頼朝の死後に発生する1200年の梶原景時の追放に始まり、1203年の比企の乱、1205年の畠山重忠の乱とそれに引き続く平賀朝雅の殺害、1213年の和田の乱などが主なものとされている。

しかし本当にそうだろうか。

まず、小国である伊豆にあってさえ、北条家の勢力は大したものではなかったとされる。

伊豆の有力武士といえばまず狩野介、そしてその一族である伊東や河津であろう。

北条家などは、たとえば狩野介の指揮のもとで動く住人のうちの1家にすぎなかっただろう。

そして他国を見渡せば、相模の三浦介、上総の介、下総の千葉の介など、狩野介を上回る勢力がいくつも存在しており、それらが頼朝軍に参加している。

落ち着いて考えれば、源頼朝は叛乱軍の首領であり、平宗盛が指導する政府軍に抵抗して戦っていた。

そんな大それた叛乱を使嗾したのは三浦義澄と東胤頼だとの言い伝えがある。

その後の北条家の活躍は目覚ましいものではなく、有力な御家人たちの奮闘で源頼朝の覇権が確立するのだが、そんな無力な北条家が、頼朝死後に突如として幕府の主人公然として強権を振るい始めるというようなことがあるだろうか。

考えてみれば、梶原景時の追放において最後の一押しをしたのは三浦義村であった。

和田義盛の乱、承久の乱、伊賀の乱ではいずれも三浦義村の去就が趨勢を決定づけた。

頼朝生前のことであるが、誅殺された上総広常も三浦一族との間に遺恨を抱えていた。

たとえばであるが、北条家による一連の他家排斥とされる動きは、挙兵当初から頼朝を支え、石橋山の合戦では一族の佐奈田義忠を戦死させる犠牲まで払った三浦一族が、幕府が成長する過程で主導権を維持するために起こした権力闘争、という面を見ることができるのではないか。

そして、その過程で将軍権力を傘に着るために、将軍側近であった北条義時の力を利用したのではないか。

たびたび起こる「他家排斥」というのは、三浦家にとっての「他家」であって、北条家はむしろ利用される立場だったのではないだろうか。


北条家としても三浦家との連携は願ったりであったろう。

北条家の立場は弱い。

単に頼朝の縁戚だというだけで、大した勢力もない北条家は、もし政子が源頼朝の寵愛を失えばおしまいだ。

そして源頼朝としては、小豪族の出にすぎない北条政子を一生の伴侶とする気などさらさらなかっただろう。

政子はあくまで「現地妻の1人」であり、いずれ京都で然るべき姫を正妻として迎える気でいたはずだし、北条家とてそのことは重々承知だったはずだ。

だが、結果として頼朝は北条政子以外の妻をめとることはなく、頼朝死後に北条家は徐々に重要な役回りを演じ始める。

いつのまにか強大な勢力に成り上がってしまった北条家に対し、三浦家ではこんなはずではなかったと臍をかんだことだろう。

1219年に源実朝を暗殺した公暁は、直後に三浦義村に庇護を求めた。

この際には北条義時が随伴をドタキャンしたために難を逃れたが、三浦義村の真の狙いは北条義時ではなかったのか。

勢力維持のために北条義時を利用していたつもりが、いつの間にか主客転倒して北条家の下風に甘んずることになった三浦義村。

しかし彼は焦りや怒りで我を忘れることはなく、たびたび策謀を企て、そしてたびたび事が破れながらも、徹頭徹尾冷静さを失わずに身を処し、終生大豪族の地位を確保した。

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しかしそんな三浦一族も、結局は宝治合戦で族滅の憂き目に遭ってしまうのだが。

 

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