源義経は日本史上の人気者である。
源平合戦において赫々たる武勲を挙げながら、その後の悲劇的な末路によって、「判官びいき」なる言葉まで生まれるに至っている。
源義経の生涯は伝記によってよく知られている。
平治の乱で父である源義朝を失ったときにはまだ牛若丸と称する赤子であったが、2人の同母兄とともに助命されて鞍馬に入る。
後に奥州平泉に出奔し、源頼朝の挙兵とともに麾下で名を挙げ、屋島では弓流し、壇ノ浦では八艘跳びの名場面を演出しながら、平家滅亡の立役者となった。
しかしその後は主君であり兄である源頼朝との間に確執を生じ、再度平泉に逃げた。
そして、源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡に討たれて生涯を閉じるのだ。
源義経とは彼の自称であり、後に源義行、源義顕と称したという。
本稿では源義経で通す。
さて、こうして見ると一目瞭然だが、彼のキャリアには途中にギャップがある。
源頼朝と奥州から駆け付けた義経との黄瀬川での対面は感動を禁じ得ないけれども、源義経がかつての牛若丸の後身であることはどのように証明されたのであろうか。
源義経が引き連れた家来は佐藤継信・忠信や僧弁慶、伊勢三郎、堀景光などが挙げられるが、いずれも累代の郎党というわけではない。
せめて広く顔を知られた人物が京都から平泉を経て黄瀬川まで随行していたのなら、まだ信じられるのだが。
もちろん牛若丸はある程度成長するまでは京都にいたわけだし、それが源義朝の遺児であることも周知の事実なので、かつての牛若丸を知る人物が源義経と面会して真偽を確認することは可能だ。
当時の源頼朝の幕下には、牛若丸の同母兄である阿野全成(今若丸)や義円(乙若丸)がいたのだから、彼らが真偽を判定することは可能かもしれない。
そうはいっても少年期に5~6年も経てば、容貌もかなり変わるのではないだろうか。
当時の平泉には藤原基成なる人物がいた。
牛若丸の母、常盤御前が再嫁した一条長成の従兄の子である。
一条長成と藤原基成との間に連絡があれば、身元を保証することは可能だ。
さらにいえば、藤原基成の弟は、源頼朝に加冠した故藤原信頼なのだ。
藤原基成から一筆があれば、源頼朝も一応は信じざるを得ないものと考えられる。
逆に言えば、藤原基成が一枚かめば、名も無き人物を牛若丸に仕立て上げることも可能になるのだ。
藤原秀衡が藤原基成を抱き込んで、源頼朝にスパイを送り込むことも可能なのである。
百歩譲って源義経が本物の牛若丸だったとしよう。
だが、源義経が本物だからといって、藤原秀衡のスパイでないという根拠はないのではないか。
要するに、他の弟たち、すなわち源範頼や阿野全成、義円などとは違って、源義経は明らかに外国勢力(藤原秀衡)の息がかかった人物であった。
とはいえ、その身元は藤原基成に保証されており、そのような人物を邪険にすれば藤原秀衡の顔に泥を塗ることになって、西の平家と北の藤原家に対して両正面作戦を迫られる。
源頼朝としては、疑いはあっても起用せざるを得なかったはずだ。
そして源義経は戦えば必ず勝った。
これでは戦場での不手際を理由に源義経を干してしまうこともできないし、源義経ほどの軍略家を起用せずに源頼朝自身が滅んでしまっては元も子もない。
西の敵、平家が滅亡してしまうと、返す刀で今度は北の藤原家と正面から対峙することが可能となる。
いくら藤原秀衡が豊かで強くても、平家には劣る。
今や源頼朝が藤原秀衡に忖度して源義経を起用する必要は無くなった。
源義経は用済みになったのだ。
史上に知られる源義経の振舞は、そうした立場の者としては慎重さに欠けている。
源義経とは、そうした自分の置かれた立場もわからないような愚かな人物だったのであろうか。
あるいは藤原秀衡からの密命を抱えた、本物のスパイだったのか。