源頼朝を語るのに欠かせない人物として、比企尼がいる。

比企尼は源頼朝の乳母の1人であり、頼朝が伊豆に配流になると、比企郡の郡司となった夫とともに領地に下った。

そして源頼朝の旗揚げまでの20年間、仕送りを続けたのだ。

この奉仕は報われ、頼朝の長男頼家の乳母夫となった比企能員の勢力は、頼家の家督継承によって全盛を極めるようになる。


これほどの重要人物であるにもかかわらず、比企家は1203年の比企能員の変によって一族滅亡してしまったので、比企尼も、その夫である比企掃部允も、その出自が判っていない。

 

まず比企家とは、藤原秀郷の流れを汲む一族であるとされている。

この血統は関東にも多く、下野の足利氏や小山氏、相模の波多野氏や山内首藤氏などがそれにあたる。

ここで気になるのは、源頼朝の乳母である比企尼、寒河尼、山内尼の3人が、いずれも秀郷流藤原氏の嫁であるという点だ。

何か理由があるのだろうか。

 

次の手がかりとして、御家人が滅ぼされれば、遺領は原則としては縁者に与えられると思われる。

たとえば上総広常が滅んだ際には、遺領は縁者である千葉氏や三浦氏に分配されている。

とすれば、比企家滅亡後の遺領も、基本的には縁者に与えられたと考えてよいのではないか。

そこから比企家の血統を推定することはできないか。

 

安達景盛は比企尼の長女の子であるが、比企能員の乱では反比企の立場に立っている。

比企領を与えられるには恰好の人物であるように思うが、よくわからない。

比企郡の中心は松山だが、戦国時代の松山は上田朝直なる武士の所領となっている。

上田家は武蔵七党の一なる西党の武士であるが、郡名を冠する比企家と比較するといかにも小者である。

比企が滅んで上田に所領が与えられたとは考えにくい。

それよりは、上田氏の上位にある太田氏であればまだわかるのだが。

 

というわけで、比企家の出自はよくわからない。

 

次に、比企尼自身について考えてみよう。

比企尼の甥で養子となった比企能員は、安房または阿波の出身とされる。

その名は比企遠宗、朝宗と同じ一族出身とは思われない。

しかし、妻の甥に家を継がせるのだから、比企尼の実家もそれなりの格式のある家であろう。

そもそも源頼朝は、父母ともにそれなりの身分がある。

乳母を選ぶにあたっても、候補者の婚家だけでなく実家の家柄も考慮したのではないだろうか。

現に、寒河尼の婚家である小山氏と実家である宇都宮(八田)氏は、どちらもかなり有力な武士団の長である。

比企尼の実家も、もし鎌倉殿御家人であれば、相当な重鎮であったはずだ。

しかしそれがどこのどういう一族なのかはわからない。

名前を手掛かりに探すとしても、比企能員の能なる字は京都でも関東でもよく名前に用いられており、とりたてて珍しい字ではない。

阿波で能の字といえば、田口重能が思い浮かぶが、比企能員との関係は分からない。

さて、比企尼について、もうひとつよく分からないのは、平治の乱での立ち位置だ。

源頼朝の伊豆配流に伴って、比企掃部允が比企郡の郡司になって都から下向したというのであれば、平治の乱では源義朝に与党しなかったということであろうか。

確かに、源義朝に与して戦った三浦義澄や上総広常は、乱後も所領を保持している。

だが、源義朝に与しておいて、乱後に新たにポストを得るなどということがあるだろうか。

しかも、平治の乱後の武蔵守は、平知盛なのだ。

郡司に就任するのであれば、9歳の知盛か、その父である清盛の許可が必要だったはずだ。

比企掃部允が平治の乱で源義朝に与したとは考えにくいのだ。

だが、乱後20年に亘って源頼朝を援助するほど、源頼朝を鍾愛していたのであれば、なぜ平治の乱で源義朝に与しなかったのであろうか。

 

他にも気になることがある。

吾妻鏡には、北条時政と、すでに死亡していた比企掃部允が源頼朝を大将に立てて謀反を企てるのではないかと平家が警戒していた事が語られているという。

時期的には源頼政が戦死した直後である。

このことは、比企掃部允が平家の家人ではなく、その彼が比企の郡司になれたのは、他の誰かの推薦があったことを暗示しているのではないか。

 

以上から、たとえばこんなストーリーが考えられる。

平清盛は源頼朝を助命すると決めた。

決めた以上、生活の世話を手配しなければならない。

清盛は、源頼朝の世話を源頼政に任せることにし、頼政の知行国である伊豆に配流した。

清盛の依頼を受けた源頼政は、伊豆の有力な国人である伊東祐親に源頼朝の世話をさせることにした。

伊東祐親の次男祐清の妻は、源頼朝の乳兄弟であるので、この役にうってつけである。

また、祐清の相婿である安達盛長を源頼朝の従者として、頼朝に付けた。

その上で頼政は、祐清妻や盛長妻の父である藤原某に坂東の適当な役を与えて下向させ、祐清・盛長を支援させたいと考えた。

それが可能なのは、藤原某が源頼政に仕えていたからであろう。

藤原某のもう一人の娘が河越重頼に嫁いでいることから、源頼政は河越の近隣の所領を藤原某に与えることを考え、武蔵の知行国主である平清盛に相談した。

これに応えて清盛は、藤原某を河越の隣の比企の郡司に任ずることにした。

こうして藤原某は比企掃部允となり、妻とともに坂東に下った。

比企掃部允および妻(比企尼)は、主である源頼政の命令を受けて、源頼朝に仕送りを開始した。

そして武蔵守平知盛と、伊豆守源仲綱(頼政の子)がそれを監督することとした。

比企掃部允による援助は、婿の河越重頼の協力を得て、別の婿である伊東祐清を通じて行われた。

頼朝側近には、もう一人の婿である安達盛長が付けられている。

 

さてそうした中、源頼朝が伊東家中でトラブルを起こして逃亡した。

困った源頼政は、改めて北条時政に源頼朝を世話するように指示した。もしくはそうした事実を追認した。

北条時政は、こうした縁で源頼政とのパイプを築き、これを背景に伊豆で勢力を得た。

 

このような状況で、源頼政が死んだ。

それも、こともあろうに平清盛に謀反を起こして敗死した。

結果、源頼政を後ろ盾としていた比企掃部允(はすでに死んでいた)と北条時政の両名は進退が窮まり、謀反を起こすのではないかと噂されていた。


まあ、これは想像しすぎかとは思うが、要するに比企尼は乳母子である頼朝かわいさに平家の目を盗んで密かに頼朝を援助していたのではなくて、むしろ平家やその与党の命令を受けて、業務として頼朝を援助していたのではないだろうか。

 

もちろんそこには源頼朝への愛情が伴っていただろうし、源頼朝としても、業務とはいえ20年も奉仕を続けた比企氏への報恩の気持ちもあったのではないかと思う。

 

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