喜連川(きつれがわ)は、栃木県の中部に存在する。

数年前は塩谷郡喜連川町であたが、氏家町と合併して、いまは「さくら市」になっている。

喜連川には鉄道の駅もなく、地図で見ると、東北本線の駅がある氏家の付属物のように見える。




さて、さて喜連川は、いちおう奥州道中喜連川宿があった宿場町でもあり、江戸時代には陸奥諸藩の参勤交代などで、それなりに賑わったようだ。

歴史を紐解けば、何より室町時代には事実上の日本のボスであった足利氏の流れをくむ大名、喜連川氏の本拠地であったことで知られる。

喜連川氏は、足利尊氏の子、基氏の子孫で、鎌倉公方~古河公方を代々務めた足利氏の末裔だ。

古河公方の男系が絶えた後、最後の当主足利義氏の娘、氏姫と、古河公方の傍流の国朝が豊臣秀吉の計らいで結婚し、喜連川に領地を賜ったことに始まる。

国朝早世の後には氏姫は国朝の弟頼氏と再婚し、その子孫によって明治維新まで喜連川藩は守られる。

石高は五千石に満たなかったが大名として扱われ、江戸時代の諸侯の中では異色の存在であった。

道の駅ではヤシオマスの冷燻が売られていた。

ヤシオマスはご当地サーモンの中では歴史が古い方だ。

喜連川氏が治める前は、ここは宇都宮氏の勢力範囲で宇都宮氏の一族である塩谷氏の分家が治めていた。

豊臣秀吉の関東襲来の際、宇都宮氏は存続したのに喜連川の塩谷氏は取りつぶされた。

宇都宮氏の統制が、十分に及んでいなかったことが想像される。

氏家方面から喜連川に入る直前に早乙女坂という山越えの道を通るが、ここは(たぶん)1549年の早乙女坂の戦いの舞台である。

那須高資と宇都宮尚綱の戦いは宇都宮尚綱の戦死で終わったが、勝った那須高資も2年後には暗殺される運命にあった。

全国的には知名度が低い喜連川ではある。

もう少し、客を誘うようなパンチがほしいとも思うが、それなりに歴史が詰まった、由緒ある町である。

 

 

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