島津忠良は、島津家700年の歴史の要として語られる人物である。

島津宗家の当主ではなかったが、長子貴久が島津宗家を継ぎ、貴久の子が九州統一目前にまで迫った義久である。

忠良登場以前には千々に乱れていた南九州だが、守護の島津家は忠良の薫陶を受けた貴久・義久のもとで九州最強の大名家に生まれ変わり、薩摩藩89万石の礎を築いたとされる。

忠良の次子忠将の子以久は佐土原藩島津家の祖であり、三子尚久の子忠長は、朝鮮の役において島津家の名を轟かせた泗川の戦いでの活躍で知られる。




忠良は伊作島津家出身であった。

伊作島津家は宗家を継げる家格ではなかったが、相州家(島津運久)の養子となって家格を高め、長子貴久を宗家の養子に入れることに成功したとされる。

そして次子忠将には自らの相州家を継がせた。

一方、忠良は伊作島津家当主の地位を捨てたわけではなく、こちらは三子尚久に継がせた。

系図を見ると、伊作島津家は島津家三代久経の子久長に始まる家で、確かに宗家とはかなり血縁が離れている。

そのような忠良が宗家を継げる家格の相州家に養子入りできたのは、忠良の母が島津運久に望まれて再婚する際に、連れ子忠良を養子にして家督を相続させることを条件にしたからだと言い伝えられる。

いわば閨房を通じた裏口の工作で相州家に入り込んだのである。

しかし、系図を信じるならば、実は忠良はそれほど毛並みが悪くはない。

というのも、忠良の祖父・久逸は、宗家の忠国の子であって、伊作家に養子に出たものだからである。

つまり、運久からみて忠良は、従弟の子ということになる。

それだけではない。じつは運久の父である友久の母、つまり運久の祖母は、伊作島津家の勝久の娘なのである。

島津久逸は、兄友久の伯父である教久(勝久の嫡子)の養子となったのである。忠良は久逸の孫である。

さらに言えば、久逸の養父教久は、将軍足利義教から名の一字を拝領したとも言われる。

島津宗家でさえ、この時期には将軍の名を拝領した者はいない。

足利尊氏から一字を拝領した氏久以降、次に将軍から一字を拝領するのは、義久・義弘兄弟(足利義輝より)まで下らねばならぬのである。

遠いとはいえ伊作家も島津家の一門である。

そのうえ血縁の近さから言っても、家格から言っても申し分ない。

何も閨房の秘話を無理に持ち出さなくとも、子のない島津運久にとって、忠良は家督を譲るには願ってもない相手だったはずである。

それなのに敢えてこんな裏話を持ち出さねば世間を納得させられなかったのはなぜだろう。


気になるのは、忠良の三子島津尚久である。

尚久は忠良の本来の出自である伊作島津家を継承した人物であるが、また倭寇の大立者としても知られる。

後奈良天皇からの倭寇停止の綸旨は、余人にあらず島津尚久に宛てられたのである。

綸旨のようなものが大内義長でも松浦隆信でもなく、主君であった島津貴久をも飛ばして尚久に宛てられた意味は何だろうか。

一方で、倭寇の大物である徐海の同盟者で、後に徐海の水軍を壊滅させた「薩摩州君の弟」である日本人「陳東」なる人物を、島津尚久に擬する説がある。

陳東は1556年頃に行方不明になるが、島津尚久は1562年に32歳で死去する。

前年の廻城攻撃の際に戦死した兄忠将を見殺しにしたという非難を受けての憤死とも言われる。

(ここまでの経緯はwikipediaによる)

島津尚久の逝去と前後して、琉球王家に尚久なる人物が誕生する。

(尚久は唐名で、本名は大金武朝公という)

尚久の父である尚元王が島津尚久の存在を知らなかったはずはなく、何を考えて子に命名したのか、気になるところだ。

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さて、島津尚久が陳東であったかどうかについて、よっくすは何も証拠を持ち合わせないが、枕崎市の桜之城主であった島津尚久が倭寇の重鎮であったことは信じてよかろう。

しかも、綸旨が島津貴久でなく島津尚久に直接宛てられているところを見ると、島津尚久の海賊行為は主君貴久の命ではなく、独立の活動であったことがうかがわれる。

とすると、倭寇におけるその地位は、当時20代中盤であった若輩の尚久が自身で築いたものではなく、伊作島津家の家業であったのではないかと想像される。

そんな伊作島津家出身の貴久の宗家相続は、薩摩半島を根城にする海賊集団が島津家を乗っ取ってしまったというようにも見えるのである。

松波庄五郎なる謎の人物が長井家を、そしてその主家の斎藤家を乗っ取って、斎藤道三なる戦国大名を生み出した過程を連想せずにはいられない。


そもそも島津宗家自体が倭寇と無関係とは考えられない。

その根拠は代々が居城を鹿児島に据えたことである。

島津家の勢力範囲で最も豊かな農地は都城盆地であり、領内に四通八達と言えるのは加治木~国分にかけての平地である。

鹿児島は薩摩半島の中途半端な位置に存在する。

しかし鹿児島は、錦江湾の最狭部を扼する、南九州で最高の海の要衝である。

何度も居城の移動が検討されたにもかかわらず南九州の中心が鹿児島から動かなかったのは、錦江湾の水軍が、都城盆地の農産をも凌ぐ、鹿児島の経済で最も重要な要因であったことを意味する。

奥州家の祖である島津氏久の墓所である日向志布志や、島津忠良と死闘を演じた島津実久の薩摩出水も、同様に海賊の巣であり、島津一族全体が海賊の雰囲気を濃厚に漂わせている。

こうした状況から、島津宗家自体も貿易・海賊産業に従事していたと考えられるのである。

倭寇最大の実力者・王直が、ポルトガル人ピントを伴って島津家旗下の種子島を訪問したことは、鉄砲伝来のエピソードとともに知られている。

考えてみれば、かのザビエルが、1549年に九州を訪れて最初に面会した大名も島津貴久であった。

ザビエルは鹿児島出身のヤジロウとマラッカで出会ったわけだが、何故マラッカにヤジロウがいたかといえば、それは商売のためだろう。

彼も倭寇の一員だったのだ。


戦国時代末期、それまで大友家の後塵を拝してきた島津家がにわかに強大化し、九州統一に迫る。

大友家の繁栄は、大内家、毛利家を排除して、朝鮮貿易の要である博多を抑えたことで全盛を迎えていた。

しかしこの時期、何らかの原因で朝鮮経済が不振に陥ったのではないか。

これに対して琉球~南海貿易は殷賑を極め、結果、島津家の勢力が大友家を上回る結果となったのかもしれない。

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江戸時代に、実質35万石ほどでしかなかった島津家が分不相応とも思える89万石もの表高を誇ったのも、島津家にとって貿易による収入がそれだけ大きかったからだと思われる。

島津家の琉球征服が認められたのは、幕府の貿易統制政策と、貿易に依存する島津家の経済という矛盾した2つの必要性を両立させるためであったのだろう。

幕末に島津家の財政を再建した調所広郷の改革に至っても琉球貿易は重要な施策であり、調所広郷は密貿易の拠点である志布志の地頭を兼務していたのである。


そうした状況にある島津家にあってみれば、領国の南に位置する琉球王国の勃興に相伴うように15世紀~16世紀にかけて繰り返された島津家の内紛は、成長した南海貿易の利権を巡る争いのようにも見えるのである。

そうした中で、海賊の一大勢力である伊作島津家が力を持つ。

もう一度考えてほしいのだが、島津宗家自身が海賊の頭目であるにもかかわらず、朝廷や幕府は島津宗家ではなく、伊作島津家と交渉しているのだ。

伊作島津家は島津宗家とは別勢力であるのみならず、海賊としての伊作島津家の実力は島津宗家を凌駕していたのではないだろうか。

にもかかわらず伊作島津家が根拠とした伊作や枕崎は、錦江湾とくらべれば比較にならないほど規模の小さな港にすぎない。

彼らはむしろ、外国に本拠地を持っており、伊作・枕崎は日本における拠点にすぎなかったのではないだろうか。

たとえば、中国人や越南人の海賊が、その勲功によって日本海賊の棟梁である島津家の一族待遇を与えられて島津姓を名乗った、というようなことがあってもおかしくはない。

そうであったとすれば、なぜ島津忠良の相州家相続や貴久の宗家相続に無理があったのかも理解できるのである。

 

 

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