牧畜の民那須、山の民秩父の次は、海の民の話である。

倭人は中国東方の海洋民族である。
そして我々日本人の先祖であり、日本人の別名であると考えられている。
しかしながら、江戸時代の時点では日本は、既に米の取れ高を経済の評価基準とする農業国家であった。




農業の生産力は漁業を圧倒している。
だからこそ、巨椋池や八郎潟は埋め立てられたのだ。
農業には技術が必要であり、またそれゆえに品質向上にたゆまぬ努力が注がれる。
より良い稲の品種が選抜され、開墾や灌漑の技術が向上するにつれて収量は上がり、農地は広がり、農産物の生産は拡大する。
しかし漁業の生産力は基本的には向上しない。
対象が天然の生物である以上、資源量は増えないし、船や漁具の改良による生産性の向上も知れている。

しかし自然の大地と比べれば、自然の海ははるかに豊かである。
エビや貝の類は素手でも容易に手に入る。
凍てつく大地とは異なり、海では冬も多くの食料を手に入れることができる。
その味もまた上等であった。
我々が食べる米や肉、果物などは、何千年もの間、工夫を重ねて改良されてきたものだ。
縄文時代のそれらは、現代人からすればとても食べられる代物ではなかっただろう。
しかし海産物は令和の時代に至ってなお天然物を主力としており、当然のことながら、現代のサケやイセエビの味は縄文時代と同じである。
それでいて改良を重ねた穀畜や果物と、現代でも味の面で十分に渡り合うことができるのだ。

だから人はまず海岸に沿って広がっただろう。
その後、農業技術の進歩に伴って内陸の人口が増加するが、漁業に依存する海の人口はあまり増えない。
悪いことに、豊饒な海に面した集落は、えてして険しい山地に囲まれた、平地に乏しい狭小な土地に、人々がへばりつくように住んでいる。
農業技術の進展によって人口が拡大局面に入ると、不利は否めない。
結果、農業に養われる内陸の人口のみが大きく増大し、海の勢力を圧倒する。

農業は、この時代で最も生産性の高い産業となった。
それ以前に最も生産性の高い産業であった漁業が衰えたわけではなかったが、技術の進歩によって農業人口は漁業人口を圧倒してしまったのだ。
これは古代の産業革命とでもいうべき大事件ではなかろうか。

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しかし華南では淮河や長江を中心に無数の水路が広がっており、日本列島には島々によって長い海岸線と狭い陸地という特徴的な地形が形成されている。
このために華南や日本列島では、海の生産力が大きい一方で農業の展開に限界があり、海から陸への覇権交代の時期が華北や朝鮮半島と比べればずっと遅れたはずだ。
こうして朝鮮半島南部において「海の勢力」がまだ「陸の勢力」に拮抗していたのが、任那日本府の時代ではないだろうか。

そもそも「海の勢力」なるものが海峡の片側にのみ住んでいたはずはなく、対馬海峡においても両岸、つまり朝鮮半島の海岸線から日本列島にかけて広がっていたはずだ。
これに対して、進展した中国の農業技術、あるいは蒙古の牧畜技術を備えた陸の勢力が遅れて朝鮮半島に進出してきただろう。
そして海の勢力は劣勢に追い込まれ、次第に陸の勢力に飲み込まれていく。
ただし、後背に日本列島を控える半島南部は長期にわたって陸の勢力と対抗できた。
6世紀に任那が、15世紀に耽羅が陸の勢力(朝鮮)に征服された後も、対馬はなんとか陸の勢力の侵略を防ぎ切ったのである。
そして陸の勢力が優勢な時代にあっても、造船・操船は特殊技能であり続けた。
陸の勢力が海の勢力の住む集落までは支配できても、その向こうに広がる海は、かなり後まで海の勢力の独擅場であっただろう。
だからこそ、百済を渡海征服した唐朝の軍勢は驚くほど少なかったし、元朝は高麗の船舶がなければ日本遠征を敢行できなかったのである。
あるいは、松浦の水軍は戦国時代に至ってなお列島と大陸とを股に掛けて活動していたのである。

さて日本列島の「海の勢力」であるが、これにはいくつかの勢力があったかもしれない。
それは、瀬戸内海と太平洋では、求められる船の質が違うからである。

宮崎市定は、中国文明の歴史9「清帝国の繁栄」(中公文庫)の中で、ポルトガル・スペインが海上における覇権をイギリス・オランダに譲らざるを得なかったのは、船が弱かったためであると考察している(同書332ページ)。
北海に臨む英蘭両国の船は堅牢にできており、ひとたび戦戈を交えると、葡西両国の船舶はこれに敵しえなかったというのである。

人はまず海に展開する。こんな感じだろうか。図にはないが、燕人衛満の朝鮮国や漢武帝の朝鮮四郡には、中国の農業技術が持ち込まれてきていただろう。

それならば、同様の違いは日本列島にも現れるはずだ。
太平洋では、波の穏かな瀬戸内海よりも小型堅牢で操船性に優れた船舶が要求されるだろう。
しかしそこまでの必要がない瀬戸内海では、より経済性に優れた積載量の大きい船舶が優勢となるのではないか。

実際にそのような違いがあったのかどうか、よっくすは知らない。
しかし戦国時代に至っても、瀬戸内水軍と熊野水軍は海の二大勢力であり、別種であった。
大くくりに言えば、瀬戸内海~朝鮮半島南部に広がる内海勢力と、熊野~南九州~琉球の外海勢力とがいたはずだ。
もしかすると、日本海側~朝鮮半島東部にはさらに内海勢力の亜流があったのかもしれない。
なぜならば、日本海での航海・漁労には、季節風に由来する特殊な知識が必要とされるからだ。
丹後出身の脱解が新羅の第4代王となったのは、こうした背景があるからだろう。
また新羅がたびたび「倭人」なる異人種と交戦したとされるのも、これら「倭人」が加耶諸国~瀬戸内海にかけて居住していた内海勢力の主流であって、新羅~日本海岸に盤踞する日本海勢力とは別種であったことを示唆するのかもしれない。

本稿では便宜上朝鮮半島の陸上勢力を「朝鮮人」、日本海~新羅勢力を「日本海人」、瀬戸内海~加耶勢力を「倭人」、熊野~南九州~琉球勢力を「琉球人」と称する。

牧畜の民、農業の民が半島に進出してくる

さてしかし、新羅では初代国王赫居世の子孫である朴氏や、丹後出身の脱解の子孫である昔氏の子孫は早くに王統から脱落し、遅れて現れた金氏の王統が新羅滅亡まで継続した。
まったく想像に過ぎないが、金氏とは先進的農業技術を持って新羅に渡来した外国人集団の長であり、朴氏、昔氏から金氏への王統の交代は農業の発展による海の民から陸の民への王朝交代だったのではないだろうか。
新羅を建国した日本海人は国内での派閥争いに敗れ、経済力に優る朝鮮人に主導権を明け渡したのだ。
そして新羅による半島統一は、農業の発展による新羅の人口増加、経済発展に対して、牧畜の民である高句麗、海の民を遊牧民が支配する百済がついてゆけなくなったことを意味しているのではないだろうか。

一方で日本列島では、大和朝廷による統一政権が出現する。
大和朝廷の主力は倭人であろう。
そして、1世紀には日本最古の都市である博多を中心とする倭人の小国家がこの地域の最大勢力となって漢の印綬を受けていたものが、やがて奈良へ、そして8世紀には京都へと政権の中心を移していくことになる。
この過程で倭人は日本海人、琉球人を経済的に圧倒し、支配下に組み入れただろう。

半島は農業を基盤とする朝鮮人が支配する。倭人も農業を取り入れて東国に進出する。

ところで天然の良港である博多とは異なり、奈良は内陸の盆地である。
本来海の民であったはずの倭人が奈良へ進出するというのは、考えてみればおかしなことだ。
理由はわからないが、少なくとも政権が奈良へ移った段階ではすでに農業技術を受容していたはずだ。
あるいは、「海の民」倭人は、何らかの陸上勢力に従属していたのか。
その陸上勢力とは、農業技術を有した朝鮮人以外にはありえない。
つまり朝鮮人が支配者として倭人を従えて奈良に進出した可能性はありえる。
そして当時の技術では、奈良盆地は列島で最も農業生産が上がる土地だったのだろう。
とはいえ、白村江で唐軍に挑戦するほどの実力を持つ海上技術は倭人の特徴でありつづけたのだから、仮に朝鮮人に統率されていたとしても、倭人が大和朝廷の主力の民族ではあり続けたと考えられる。

ついで日本列島に十分農業がいきわたると、内陸にも点々と集落が誕生して内陸の交通路の維持が容易となり、また広大な陸地を持つ東国の開発が進んでくる。
それによって新たに東国の物資が大和国家に流れ込んでくるようになる。
そうなれば、琵琶湖からの街道が直結する京都は奈良よりも有利だ。
奈良は単体では京都より優れた農地であっただろうが、東国からの交通の機能では京都に劣る。
こうして奈良は新興の京都に首都の座を譲ることになった。

そして、ここまで発展した大和朝廷は、日本列島に居住する第4の勢力「蝦夷」と対峙することになるのである。
ただし、Y染色体の分析の結果を信じれば、この「蝦夷」なる集団は、血統的には琉球人なのかもしれない。
それを裏付ける地理的な事実として、瀬戸内海の東には陸しかないが、太平洋は東北地方までつながっている。

いずれにしても、漢の時代には「海の民」の天地であったはずの日本列島は、隋の時代までになぜか内陸の奈良を中心とする政権によって統合されていた。
そして、元来は対馬海峡両岸で活動していた倭人は、大陸側の拠点と同胞を失う一方、海は確保し、そして日本列島を東へと進出していった。
それらの過程にどういう政治的事件があったのかはわからないが、背景には農業技術の進展による、陸上勢力の抬頭があったのではないだろうか。
「古代の産業革命」は、国と地域の在り方を根本的に変えてしまったのだ。

 

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