3枚のおふだ、という童話がある。
悪戯ずきの小僧が栗拾いの際に山姥に拐かされるが、和尚が渡しておいた3枚のおふだの法力で難を逃れるという話だ。
よっくすはこれまでに、桃太郎、そして蜘蛛の糸について、科学的に検証して、先入観を振り払うべきことを訴えてきた。
3枚のおふだについても、思うところがある。
何より、和尚はなぜ、小僧に3枚しかおふだを渡さなかったのだろう。
安全を考慮すれば、もう少し多く持たせたほうがよかったのではないか。
しかしそれはそれとして、次に考えなくてはいけないのは山姥の心情である。
一般的には、夜中に小僧が覗いてみたところ、目が血走って口が裂けた山姥が包丁を研いでいたとされる。
そこに殺意を見て取った小僧は逃走を図るも計が漏れて捕らわれ、縄をつけられてトイレに行くことになる。
しかしよく考えてみよう。
夜中に包丁を研いでいたのは、その時刻まで家事が終わらなかったからではないのか。
目が血走っていたのは、夜更かしをしたからではないのか。
思うに、はじめから人を拐かして殺すつもりであったなら、前もって包丁を研いでおくのではないだろうか。
夜中に包丁を研いでいたのなら、小僧のためにごちそうを用意しようと考えていたと理解するほうが自然だ。
そうだ。口が裂けて見えたのは、化粧に失敗したからだろう。
昔のことだ。山姥が老けているといっても、きっと30代ぐらいだったのではないか。
そして小僧も、子供というよりはすでに少年期にさしかかっていたのだろう。
そう考えると、追う山姥と、逃げる小僧というものも、少し違った絵図が見えてくる。
そうだ、山姥というくらいだから、山奥に居を構えていたのだろう。
あるいは、いわゆる悪所だったのかもしれない。
便所を切望する小僧にロープをかけて行かせたのも、別の意図も考慮に入れざるをえない。
この点については、山姥が変わった性癖の持ち主だった可能性も否定はしないが、別の可能性もある。
山奥から麓の寺まで、少年が1人で夜道を駆けていくなど危険がすぎる。
クマに遭うかもしれないし、オオカミの群に襲われるかもしれない。
もしかしたら小僧にかけられたロープは、世間知らずの小僧を危険から守るための、山姥なりの愛情だったのかもしれない。
よく考えてみてほしいのだが、山姥は小僧が逃走を図ってもなお殺さずに、用便を許しているのだ。
少なくともこの時点では、殺害の意図は無かったとみるほうが自然だろう。
だがそれでも小僧は逃げた。
そして追う山姥は、寺に乗り込んで和尚もろとも小僧の殺害を図るも、和尚との智慧くらべに敗れて亡ぶのだ。
思うに山姥は、年甲斐もなく若い男に入れ込んだものの相手にされずに逆上し、かわいさ余って憎さ百倍、小僧を殺して無理心中を図ったのではないか。
だが山姥はひと息に和尚と小僧を殺してしまわず、和尚との智慧くらべに乗ってしまった。
おそらく山姥は、和尚を屈服させることで小僧に自分の元に戻るように説得してもらえないかと、一縷の希望を抱いたのだろう。
そして結局、その詰めの甘さが命取りになったのである。
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