平安時代から鎌倉初期の武士は騎馬武者で、主力の武器は弓であった。

それに徒歩の従者が従っていた。




よく考えると、おかしな編成である。

そもそも弓は殺傷能力の低い兵器である。

にもかかわらず騎兵が弓を武器に用いるのは、騎兵は防御に問題があるからで、歩兵に馬を狙われると困るからである。

だから騎兵は刀槍が届かない距離から騎射によって攻撃し、すぐさま逃げる。

その傾向は洋の東西を問わない。

ところが軍団の中に徒歩の者が1人でもいると、機動力が著しく落ちるのである。

だから、歩兵が軍団の主力を占めるようになる戦国時代には、騎兵も戦場では下馬して、より強力な刀槍を武器に闘うようになる。

にもかかわらず鎌倉武士が自分たちだけ馬に乗り、弓を射たのはなぜだろう。

従者を全く連れて行かないのは無理としても、せめて人数を精選して彼らにも馬と弓を与えれば、もっと効果的な用兵が可能になるはずなのだ。

でなければ自分たちが下馬して、弓を刀に持ち換えればよいではないか。

しかして現実には、江戸時代でも武芸十八般の筆頭は弓術であった。

そんな時代に至ってもまだ、弓は武士のシンボルであったのだ。

一説によれば、鎌倉時代の徒歩の従者は非戦闘員だったともいう。

このこと自体はおかしな話ではない。

古代ギリシアでも、春秋時代の中国でも、戦士になれるのは市民の特権であって、庶民は兵士にはなれなかった。

戦争はあくまで支配階級どうしの、支配権の広さを争う行動であって、どちらにしろ来た人に従う庶民には戦うモチベーションが無かったのだ。

ここで問いたい。

騎馬武者と徒歩の従者は、そもそも民族が違ったのではないか。

騎射を事とする民族が日本にやってきて、土地の王者として君臨する。

そして在来の人々がそれに従者として従う。

そう考えれば、本来騎馬民族であった武士が、騎射を自分たちの身分を象徴する特権として固執しても不思議はない。

源頼朝は義仲との戦いに際し、愛馬の生月と磨墨を、佐々木高綱と梶原景季に与えた。

彼らがどれほど意気に感じたことか。

一方で、いくら楠木正成の奇策に苦戦しても、鎌倉軍が古来の戦法をどうしても捨てられなかったのも、騎兵による弓射が自分たちの存在意義そのものだったからなのではなかろうか。

さてでは、日本にやってきた騎馬民族とは誰なのだろうか。

一つ言えるのは、ある民族が大挙してやって来て日本を征服してしまった、などという記録は無いということだ。

しかし気になる記録はある。

関東地方には、朝鮮半島に関係がある地名がけっこうある。

武蔵国高麗郡、相模国高座郡、甲斐国巨摩郡(以上高句麗)、武蔵国新座郡(新羅)などだ。

これらの一部は政府の命令で8世紀に高句麗や新羅からの渡来人が移された場所だと伝わっている。伝わっていないものも同様であろう。

しかし百済についてはあまり登場しない。なぜだろう。

実は、百済の国家構造はまさに上に述べたような、支配者と従者層が異民族であったものと推定されている。

Wikipdeiaによれば、支配層と従者層では、王の呼び方が違っていたそうだ。

そして支配者は高句麗の分派、つまり満州の騎馬民族である。否定する説もあるようだが。

そのような支配構造を学び取り、あるいはそのまま日本の辺境支配に移すことは不可能ではないだろう。

後述するが、なぜ百済の滅亡に際して日本が唐との無謀な戦争に打って出たのかという謎も、このような支配構造の成り立ちと関係があるのかもしれない。

さて唐との戦争の際の日本側の大立物は皇太子の中大兄皇子であった。

中大兄皇子は舒明天皇の皇子だが、蘇我氏を倒したのちに大化の改新を主導したとされる。

だが大化の改新の契機になったクーデターはおかしな仕立てである。

蘇我入鹿の誅殺は朝鮮半島からの貢納の儀式の最中に行われたという(645年)。

普通、外国の使節の前でのクーデターなどありえるだろうか。外国の侵略を招くだけではないだろうか、という問題がwikipediaでも提起されている。

もし事実として外国の使節の前でクーデターが起こったというのなら、それはこのクーデターが実際には半島三国による日本の内政への介入だったことを暗示しているのではないのだろうか。

Wikipediaでは、古人大兄皇子が「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」と言ったことになっている。

中大兄皇子には他にも不審な点がある。

中大兄皇子は蘇我入鹿を斬り、皇極天皇を更迭した後になぜ自ら皇位に就かなかったのだろうか。

まず即位したのは孝徳天皇であり、その後にはクーデターで追い落としたはずの皇極天皇の重祚という不思議な経過を辿った後にようやく中大兄皇子が即位する(668年、天智天皇)。

中大兄皇子は百済の滅亡に際して朝鮮に派兵したが、白村江において唐と新羅の連合軍に大敗を喫した(663年)。

勝てると思ったのだろうか。

その後の朝廷は朝鮮からの侵略に怯え、関東から大量の兵士を徴発して防人として九州に駐屯させた。

朝鮮の脅威は杞憂ではなく、たびたび小規模な侵攻を繰り返した後、1274年と1281年の2回、モンゴルと連合した高麗の大軍が北九州に押し寄せた。

戦争自体はモンゴル・高麗軍の自滅に近い形で撃退に成功したが、個々の戦闘では完全に負けていた。

通路にあたる対馬・壱岐の被害は甚大であり、1274年の文永の役の際、対馬を占領したモンゴル・高麗軍は、捕虜の女性たちの手のひらに穴を空けて貫き、船壁に並べたという。

そして捕虜200人は高麗王に献上された。

モンゴル・朝鮮の恐怖は「むくりこくり鬼」として、21世紀の今日に至っても日本人の記憶の深層に刻まれている。

千年以上もの間、一方的にやられっぱなしだった日本がようやく反撃に出たのが1592年の文禄の役、すなわち豊臣秀吉の朝鮮出兵だ。

しかしこのときも大局的には明の救援軍に勝てず、何ら得るところ無く撤退せざるを得なかった。

話を防人に戻す。

なぜ関東から徴発したのだろうか。

兵士は西国から徴発して、東国からは穀物を供出させたほうが効率的ではないだろうか。

このあたりに武士の起源である騎馬民族を連れてきたのは誰なのか?という問いに対するヒントが隠されているのかもしれない。

そもそも中大兄皇子こと天智天皇とは何者なのか。

本来は皇位継承権を持たない者だったのではないかとすら思えてくる。

天智天皇は娘2人を弟天武天皇とその皇子に嫁がせた。

天武天皇の孫にあたる文武天皇は母も祖母も天智天皇の娘であり、母は祖母の妹であった。

天武天皇もまた謎の多い人物であるが、本稿では割愛する。

6世紀の百済からの仏教伝来は蘇我氏と物部氏の対立を引き起こしたとされるが、それは単なる内政問題ではありえない。

仏教伝来から天智天皇の即位まで百余年。その間、中国では南朝が滅び(589年)、勝利した隋もまた崩壊して唐に代わられた(618年)。

周辺諸国にも大きな波紋を及ぼしたに違いない。

もちろん、倭の五王以来、南朝に朝貢してきた日本においても、南朝派の失脚、隋派と唐派の争いといったような問題が発生していても不思議はない。

そもそも日本への仏教伝来も、その背後には仏教に傾倒するあまり国を滅ぼした梁の武帝(501-549)の存在を無視できない。

さて日本では蘇我氏と物部氏の対立以降、様々な勢力が政権を争った。

そのうちのいくつかは親中国派と国風派の争いと説明されるが、どの勢力も競って国制の中国化に邁進したことを思えば、親中国派の中にもいろいろな派閥があって、その間で争っていたと考える方が納得がいくように思う。

半島諸国でも似たような動揺はあっただろうし、それが日本にも波及してさらに複雑な党争を引き起こしていたのかもしれない。

今となっては知るすべもないが、山背大兄王や蘇我入鹿の滅亡も、そうした国際政治との関連があるのか。

唐との無謀な戦争に追い込まれた背景も、結局は国際関係の文脈でないと本当には理解できないのであろう。

武士という存在が関東に浸透しきったであろう939年、相馬小次郎こと平将門が叛乱を起こした。

平将門の戦力の基盤は、領内に産する馬であった。

そして最後は藤原秀郷の軍に敗れて死んだ。

矢に中たって死んだとされるのは、武士として象徴的な死にざまだと感じざるをえない。

この2者も例に漏れないが、武士はそのかなりの部分が源氏、平氏、藤原氏のいずれかを称する。

名族への付会、仮冒ともされるが、もしかすると本当にその基は少数の部族に遡れるのかもしれない。

今の栃木県にあたる下野国を四分した小山、足利、宇都宮、那須の諸家はいずれも藤原氏を称し、中でも小山氏と足利氏は藤原秀郷の子孫であることを誇っていた。

 

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