河津桜の季節が来た。
河津桜とは直接の関係は無いのだが、河津といえば河津三郎(祐泰)である。
河津三郎は2つの点で後世に名を残している。
俣野五郎(景久)を相撲で破ったこと、子息2人が仇討ちを果たしたことだ。
相撲に関しては、現代の大相撲でも「河津がけ」の決まり手に名を残している。
息子たち、すなわち曽我十郎、五郎の兄弟は工藤祐経を討ち果たし、日本三大仇討ちと称されて有名である。
いずれも曽我物語において詳述される。
曽我物語は、曽我十郎(祐成)の妾であった虎御前が広めたものだという。
若かった虎御前も、いつかは老いる。
そして五十年経っても、百年経っても、虎御前はいつまでも現れる。
そして全国各地の無数の虎御前は語るのだ。「私のカレシは、立派なお方だったのですよ」
こうして曽我物語は女語りで語られたという。
琵琶法師が語り伝えた「平家物語」とは好一対である。
このようなあらすじはよっくすも知っている。
が、恥ずかしながら、本で読んだこともないし、演劇で見たこともない。内容は知らないのだ。
しかし問いたい。いま日本人のどれくらいの人が、曽我物語や平家物語を通しで聞いたこと(読んだこと)があるのだろうか。
なるほど書籍では発刊されているだろうし、歌舞伎などの伝統芸能では披露されるのかもしれない。
しかしそれでは敷居が高いのではないだろうか。
結局、これらの物語は人々から縁遠いものとなっていく。
かつて、鉄道でキセル乗車をしている者は「薩摩守」と呼ばれた。
これは、平家物語の主要登場人物である薩摩守忠度(ただのり)を庶民の端々に至るまでが、常識として知っていたからこそであろう。
しかし、現代に至っては、くどくど説明しないと何故キセル乗車が薩摩守なのか、さっぱりわからない。風情を欠くこと甚だしい。
でなければ、せいぜい鹿児島県民が気を悪くするのが落ちであろう。
また、琵琶法師が須らく盲目であることが国民的常識であればこそ、なぜに芳一が、自らをいざなう声がこの世のものでないことを見破れないのか、説明ぬきで理解されるのである。
そもそも、昔の人々にとって、曽我物語や平家物語は身近な物語だったはずだ。
江戸時代までは、全国各地を彷徨う琵琶法師や巫女などが、演舞や弾き語りを披露して日銭を稼いでいたのではなかったか。
今風に言えば、地区の公民館に呼ばれて演劇を披露し、翌日は隣の地区の公民館に呼ばれ、いずれは消えていくのだ。
だが、現代では同じように振る舞っても、おそらくお巡りさんに通報されるだろう。
それでなくても、スマートホンでスケジュールを管理して、公式ウェブサイトでプロフィールが紹介されているさまを想像してほしい。
若くて美しければ固定のファンが全国各地に行脚してついていくだろう。
そうした状況のもとで「私のカレシ、曽我の十郎は…」など口上を述べてみたとしても、そのリアリティーの無さといったら、こりん星のほうがまだマシではないかすらと思う。
曽我物語を伝えた虎御前は、大磯のプロの女性だったと伝わる。
昔のそうした女性は、良いお金を取るためにはそうした教養と技能が必要だったのだ。
しかし現代でそうした芸を披露する場は、なかなか無い。
どちらかといえば王様ゲームとかポッキーゲームとかのほうが、そういった場になじみそうである。
やはり現代は現代に合ったやり方ではないとだめだ。
そうして曽我物語は消えてゆくのか。
現代の日本人が教養や能力に欠けているわけではない。
なにせ、現代日本では誰もが「ディスイズアペン!」「グッドモーニング!」と気軽に挨拶するではないか。
老若男女、貴賤を問わず外国語を駆使するなど、江戸時代には考えられなかったことだ。
昔とは教養の方向性が違うだけである。
思えば曽我物語は、源氏と平氏が覇権を争った源平合戦の、いわば外伝である。
そしてその後に幕府を開いた足利氏や徳川氏、琉球の王者尚氏などはみな源平合戦の勝者たる源氏の子孫という言い伝えを持っていた。
曽我物語は、いわば全国民の宝である。
イギリスにはシェイクスピアが、中国には李白・杜甫がいる。
しかし我が国にも、誇るべき曽我物語、平家物語があるのである。
ただしよっくすは内容をよく知らない。