元暦2年2月、讃岐屋島の戦いで、源義経率いる鎌倉軍が平家を破った。
その際に、下野国の住人、那須与一が船上の扇の的を射抜いた故事は、あまりに有名である。
平家の挑発に対して、那須与一は鎌倉軍を代表する弓の名手として選ばれた。
その事実から、いくつかの想像がかきたてられる。
その一つは、那須という土地柄である。
那須は日本最大ともいわれる扇状地である。
那須の山脈を流れ下った那珂川水系の各河川は、那須野が原では伏流となって地下に潜る。
このため、那須野が原には水田を営むことができなかった。
陸羽街道が通過する要地であるにも関らず、近世以前は広大な平原にわずかな人口を擁するのみであったのだ。
しかし人口希薄な那須の住人は外国からの攻勢によく耐えた。
天文18年、那須高資が喜連川五月女坂の合戦で宇都宮尚綱の大軍を破り、尚綱を戦死させたのはその一例である。
那須諸族は水田を営むことができない代わりに、特殊技能をもって那須の地を治めたのだろう。
それは原野で馬匹を牧畜し、原野を闊歩する野獣を仕留めて食料とする技術、すなわち牧畜と騎射の技術だったのではなかろうか。
関東を代表する騎射の名手が那須の地に現れたのは、決してただの偶然ではなかったのだ。
もう一つは、与一という仮名である。
文字通り読めば、那須与一は十一男である。
もし仮に扇を射損ねれば、全軍の恥辱だ。
射手は責任を取って死なねばならなかったのではなかろうか。
そして、ミッションの難しさからいって、十中八九は失敗に終わることが見えていたはずだ。
失敗して死んでも惜しくない、あるいはやむを得ない人物。
十一男であれば、死んでも比較的損失が少ないと評価されたのではないだろうか。
であるにもかかわらず、鎌倉軍を代表して恥ずかしくない弓の名手。
「那須与一」という名前は、そんな人物像を想像させる。
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はたして那須与一はミッションに成功した。
結果、十一男であるにも関わらず、長幼の序を覆して惣領の座を射止めたのだ。
絶対に勝てないとみえる賭けに命をかけたからこそ、おそらく多分に偶然によってその賭けに勝った結果、大きな見返りを得ることができた。
人生に成功を収めるためには、ときにはそんな賭けに打って出ることも必要なのかもしれない。
だが、そのリスクはあまりにも大きい。
これほど厳しい勝負に身を委ねることができるだろうか。
よっくすには、それはとても無理だと思う。